四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)

1864年、前年の外国船砲撃事件の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊が長州藩の下関砲台を占領した事件は何か?
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★★★

【参考リンク】
下関戦争(Wikipedia)

四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争) (しこくかんたいしものせきほうげきじけん(ばかんせんそう)

1864年

【概説】
1864年(元治元年)、前年の長州藩による外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関の砲台を攻撃・占拠した事件。列強の圧倒的な軍事力を前に大敗を喫した長州藩は、攘夷の不可能を悟り、近代化と武力倒幕へと方針を大きく転換させることとなった。

事件の背景:長州藩による攘夷決行

1863年(文久3年)、尊王攘夷運動の激化と朝廷からの圧迫に苦慮した江戸幕府は、やむなく「5月10日」を期日とする攘夷決行を諸藩に命じた。大半の藩がこれを黙殺するなか、尊王攘夷派の急先鋒であった長州藩は幕命を忠実に実行し、下関海峡(関門海峡)を通過するアメリカ、フランス、オランダの商船や軍艦に対して無差別砲撃を加えた(下関事件)。その後、米仏軍艦からの局地的な報復攻撃を受けたものの、長州藩は砲台を修復・増強し、海峡の封鎖を強硬に継続した。

四国連合艦隊の結成と下関攻撃

長州藩による下関海峡の封鎖は、外国船にとってアジア海域における重要な航路(瀬戸内海航路)の遮断を意味し、貿易に多大な支障をきたしていた。イギリス駐日公使オールコックは、この事態を重く見て、長州藩の武力制裁と幕府の攘夷政策放棄を狙い、列強による共同軍事行動を主導した。

1864年(元治元年)8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国からなる四国連合艦隊(軍艦17隻、兵力約5000人)が下関に来襲した。奇しくもこの直前、長州藩は京都で禁門の変(蛤御門の変)を起こして敗退し、朝敵として幕府から第一次長州征討を受けようとしている「内憂外患」の絶体絶命の状況にあった。

圧倒的な戦力差と講和の成立

8月5日、四国連合艦隊による激しい艦砲射撃が開始された。長州藩兵も果敢に応戦したが、西洋列強の近代的な大砲と圧倒的な火力の前に前近代的な沿岸砲台は次々と沈黙し、多国籍陸戦隊の上陸を許して砲台は完全に占拠・破壊された。なす術を失った長州藩は、恭順を余儀なくされる。

長州藩は、当時牢に繋がれていた高杉晋作(宍戸刑馬と仮称)を正使に抜擢し、連合艦隊との講和交渉に臨ませた。交渉の結果、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食料の供給などが認められた。さらに300万ドルという巨額の賠償金の支払いが取り決められたが、高杉らは「攘夷は幕府の命令に従ったまでである」と主張し、最終的にこの賠償金支払い義務は幕府が肩代わりすることとなった。

歴史的意義:攘夷の放棄と倒幕への転換

この四国艦隊下関砲撃事件は、同時代における薩摩藩の薩英戦争(1863年)と並び、幕末の政治史において極めて重要な転換点となった。狂信的なまでに攘夷論を唱えていた長州藩であったが、実際に西洋列強と砲火を交えたことで、両者の間にある絶望的な軍事力・科学技術力の差を骨の髄まで痛感させられたのである。

これを契機に、長州藩内では単独での武力攘夷の不可能を悟り、西洋式軍備の導入と近代化を推し進める「開国進取」へと藩論が大きく転換していく。やがて高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らを中心とする派閥が藩の実権を掌握すると、長州藩は密かにイギリスへと接近し、倒幕の最大の原動力へと変貌していった。かつて薩英戦争で同じ挫折を味わい、現実路線へと転換していた薩摩藩と長州藩が、後に薩長同盟を結んで明治維新を成し遂げる背景には、この手痛い敗戦の共有があったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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