オールコック
【概説】
幕末の日本に派遣された初代イギリス駐日公使。過激化する尊王攘夷運動に直面するなかで対日強硬外交を展開し、1864年の四国艦隊下関砲撃事件を主導した人物である。
初代駐日公使としての赴任と攘夷の嵐
オールコックは医師としての経歴を持ったのち外交官に転身し、清国での領事勤務を経て、1859年(安政6年)に初代駐日総領事として来日した(後に公使に昇格)。当時の日本は安政の開国直後であり、国内では外国人を排除しようとする尊王攘夷運動が激化していた。
彼は、イギリス公使館が置かれていた高輪の東禅寺が水戸藩浪士らに襲撃された東禅寺事件(1861年)において自らも襲撃の標的となるなど、相次ぐ外国人殺傷事件の脅威に晒された。これらの経験から、オールコックは江戸幕府の統治能力や攘夷派の取締能力に強い不信感を抱くようになり、日本に対して武力を背景とした強硬な姿勢で臨むべきだという確信を強めていった。
四国艦隊下関砲撃事件の主導と更迭
1863年(文久3年)、長州藩が関門海峡を通過する外国船を砲撃する事件が発生すると、オールコックは攘夷派を徹底的に打倒する好機と捉えた。彼はイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国を糾合し、共同での軍事制裁を画策した。
翌1864年(元治元年)、彼は本国政府からの「大規模な軍事行動は避けるべし」という指示が届く前に、自らの判断で連合艦隊を編成させ、四国艦隊下関砲撃事件を断行した。この圧倒的な武力行使によって長州藩の砲台は壊滅し、同藩に攘夷の不可能性を痛感させることとなった。結果として、長州藩がイギリスへ接近し、のちの薩長同盟や倒幕運動へと方針を大きく転換する契機を作ったのである。しかし、この独断専行はイギリス本国政府の不興を買い、オールコックは事件直後に公使を解任され、本国へ召還されることとなった。
日本理解者としての側面と歴史的功績
対日強硬策を推進したオールコックであったが、単なる高圧的な外交官にとどまらず、日本の文化や社会制度に対する深い洞察力も持ち合わせていた。1862年のロンドン万国博覧会に際しては、自身が日本で収集した美術工芸品を出展し、ヨーロッパにおける最初期のジャポニスム(日本趣味)の流行に寄与した。
また、帰国後に著した『大君の都(The Capital of the Tycoon)』は、幕末の混乱期における日本社会や政治情勢を西洋の視点から冷静に分析した第一級の史料として、今日でも高く評価されている。彼の強硬外交は、図らずも日本の封建制の終焉を早め、明治維新へと向かう近代化のプロセスを加速させる歴史的引き金となった。