第2次長州征討(伐)

1866年、幕府が再び長州藩を討伐しようと軍を送ったが、薩長同盟の支援と大村益次郎の指揮による長州軍の反撃に遭い、事実上の敗北を喫した戦役を何というか?
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重要度
★★★

【参考リンク】
木戸孝允(Wikipedia)

第2次長州征討(伐)

1866年

【概説】
1866(慶応2)年、江戸幕府が反幕府的な姿勢を強める長州藩に対して行った二度目の軍事行動。長州軍が四方面すべてで幕府軍を撃破したため「四境戦争」とも呼ばれる。近代兵器と新戦術を用いた長州藩の前に幕府軍は全面的な敗退を喫し、幕府の権威が決定的に失墜して倒幕へと時代が急転回する契機となった。

第一次長州征討後の情勢と「武備恭順」

1864(元治元)年の第1次長州征討において、長州藩は幕府に対して戦わずして恭順の意を示し、保守派(俗論派)が藩政を握った。しかし、これに反発した高杉晋作らが同年暮れに功山寺で挙兵し、奇兵隊などの諸隊を率いて保守派を打倒した。これにより長州藩の実権は再び尊王攘夷・倒幕派(正義派)が掌握することとなった。藩の指導者となった桂小五郎(木戸孝允)や高杉らは、表向きは幕府に恭順しつつも、裏では軍制改革と西洋式武器の購入を進める「武備恭順」路線へと転換し、来るべき幕府との再戦に備えた。

薩長同盟の密約と幕府軍の孤立

長州藩の不穏な動向を危惧した幕府は、1865(慶応元)年に将軍・徳川家茂が自ら大坂城へ下り、諸藩に再び長州への出兵を命じた。しかし、幕府の強権的な政治姿勢に不満を抱いていた大藩はこれに消極的であった。とくに薩摩藩は、大久保利通や西郷隆盛らが幕府の出兵命令を明確に拒否する姿勢を示した。

さらに1866(慶応2)年1月、土佐藩の坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介により、長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛の間で薩長同盟が極秘裏に結ばれた。この密約により、薩摩藩名義でイギリス商人トーマス・グラバーから購入された最新鋭のミニエー銃やゲベール銃などが長州藩へ引き渡された。幕府は長州藩を経済的・軍事的に孤立させようと目論んだが、実際には薩摩藩の離反により、幕府側こそが政治的に孤立していくこととなったのである。

四境戦争の展開と長州軍の近代戦術

1866年6月、幕府軍は長州領を取り囲むように、大島口、芸州口、石州口、小倉口の四方面から一斉に進攻を開始した。長州藩側はこれを自国の四つの国境で迎え撃ったため、この戦いを四境戦争と呼ぶ。

兵力において圧倒的有利を誇った幕府軍であったが、その実態は旧態依然とした装備と旧式戦術の寄せ集めに過ぎなかった。対する長州軍は、大村益次郎の近代的な軍事指導のもと、身分を問わない農民や町人からなる奇兵隊などの諸隊を主力とした。長州軍は、散兵戦術(兵士が散開して射撃する戦術)と最新鋭のライフル銃を駆使し、密集陣形で進軍する幕府軍を次々と打ち破った。特に小倉口では高杉晋作が海軍力も連動させた巧みな指揮を執り、石州口では大村益次郎が的確な用兵で幕府軍を圧倒するなど、長州軍は全戦線で劇的な勝利を収めた。

将軍家茂の病死と幕府権威の崩壊

戦局が幕府側の全面的な劣勢に陥る中、同年7月、大坂城で陣頭指揮を執っていた将軍・徳川家茂が病死するという不測の事態が発生した。これを絶好の口実として、後継者となった徳川慶喜は朝廷に働きかけ、事実上の敗北を隠蔽する形で停戦の詔勅を引き出し、軍を撤退させた。

この第2次長州征討における敗北は、江戸幕府がもはや一地方の藩を武力で鎮圧する力すら失っていることを全国の諸大名や民衆に露呈する結果となった。幕府の軍事的・政治的権威は完全に失墜し、時代は翌年の大政奉還および王政復古の大号令といった倒幕への決定的な段階へと急激に突き進んでいくこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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