開国和親 (かいこくわしん)
【概説】
慶応3(1867)年の王政復古を経て成立した明治新政府が、従来の攘夷論を排して国際社会に対して表明した外交・国策の基本方針。鎖国体制を完全に終結させて外国と平和的に交際し、西洋の先進的な技術や制度を積極的に導入することで近代化を推進することを目指した。
「尊皇攘夷」から「開国和親」への大転換
幕末期、薩摩藩や長州藩などの倒幕派は、天皇を尊び外敵を排撃する「尊皇攘夷」を掲げて徳川幕府の外交姿勢を厳しく批判し、政権転覆運動を展開した。しかし、薩英戦争(1863年)や下関戦争(1863〜64年)を通じて欧米列強の圧倒的な軍事力を直接体感したことで、武力による攘夷の実行が不可能であることを痛感した。政権奪取後に攘夷を強行すれば、新政権は誕生直後に列強による武力干渉を招き、崩壊する危険性があった。そのため、明治新政府は発足直後から、これまでの攘夷論を事実上放棄し、現実的な路線である開国和親へとドラスティックに方針を転換せざるを得なかったのである。
国際公約としての表明と「五箇条の御誓文」
慶応4(1868)年1月15日、新政府は主要な外国公使に対し、王政復古の宣言とともに幕府が締結した諸条約を引き継ぎ、国際法に則って外交を行うことを布告した。これは、新政府が国際社会の一員として承認されるための不可欠な措置であった。この方針は、同年3月14日に発布された「五箇条の御誓文」の中で、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」という文言で公式に制度化された。ここに、世界に学び、開かれた近代国家を建設するという日本の進路が確定した。
近代国家建設と条約改正への出発点
開国和親の採用は、単なる外交方針の一大転換にとどまらず、日本国内の社会・文化・政治体制のあり方を根底から変革する契機となった。対等な外交関係を構築するためには、日本自身が欧米基準の「文明国」となる必要があったからである。新政府は、西洋の学術、法制度、軍事技術などを貪欲に吸収し、富国強兵や殖産興業を推進した。この開国和親を大前提とした近代化改革の積み重ねこそが、のちの明治中期以降における不平等条約の改正(条約改正)を成し遂げるための重要な原動力となった。