享保の飢饉 (きょうほうのききん)
【概説】
江戸時代中期の1732年(享保17年)に、西日本を中心に発生した大飢饉。冷夏や大雨に加え、ウンカなどの害虫が異常発生したことで深刻な凶作となり、甚大な餓死者を出した。江戸三大飢饉の最初の一つに数えられる。
冷夏と害虫の異常大発生がもたらした西日本の惨状
享保の飢饉の直接的な原因は、1732年の春から夏にかけて西日本一帯を襲った悪天候と、それに伴う害虫の異常発生である。長雨と冷夏によって稲の生育が阻害されたところへ、ウンカ(イネの汁を吸う害虫)が大量発生し、瀬戸内海沿岸や九州地方を中心に作物は壊滅的な被害を受けた。この年の西日本の米の収穫量は平年の半分以下、地域によっては1割から2割程度にまで激減したとされる。この凶作により諸藩は深刻な食糧不足に陥り、幕府の公式記録でも約1万2000人、実際には数万人から数十万人規模の餓死者・病死者が出たと推計されている。特に福岡藩や小倉藩など、九州の諸藩において被害が極めて深刻であった。
都市部への波及と江戸初の「打ちこわし」
西日本での大凶作は、流通網を通じてすぐに大都市圏へと波及した。西日本からの米の流入が途絶えたことで、大坂や江戸の米価は急騰した。これに対し、当時進められていた享保の改革による米価抑制政策の歪みも重なり、都市の貧民層は一気に生活苦へと追い込まれた。1733年(享保18年)正月には、米の買い占めや価格吊り上げを行っていると噂された江戸の米商人・高間伝兵衛の家を民衆が襲撃する事件が発生した。これが江戸の歴史上最初とされる打ちこわしであり、飢饉による社会不安が将軍のお膝元である江戸の治安を揺るがす事態にまで発展したことを示している。
飢饉後の幕府の対策と「救荒作物」の普及
この未曾有の事態に対し、8代将軍徳川吉宗は被災地への米の放出や、他地域からの米の融通といった応急措置をとった。さらに中長期的な飢饉対策として、コメ以外の代替食料である「救荒作物」の栽培普及を模索した。その代表例が、甘藷先生として知られる蘭学者の青木昆陽を登用して推進したサツマイモ(甘藷)の栽培である。サツマイモは痩せた土地や乾燥に強く、東日本でも育ちやすいことから、飢饉対策として極めて有効であった。この政策はのちの天明の飢饉や天保の飢饉において、多くの人々の命を救うこととなる。享保の飢饉は、幕府に対して単なる年貢増徴だけでなく、災害への備えや社会救済システムの構築の重要性を認識させる大きな転換点となった。