東郷平八郎

日露戦争において連合艦隊司令長官を務め、日本海海戦においてバルチック艦隊を撃滅した海軍大将は誰か?
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★★★

東郷平八郎

1848〜1934

【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した大日本帝国海軍の軍人。日露戦争において連合艦隊司令長官を務め、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した海軍大将である。「東洋のネルソン」とも称され、国家的英雄として世界的にも広く名を知られた。

薩摩藩士からの出発とイギリス留学

東郷平八郎は1848年、薩摩藩士の家に生まれた。幕末の動乱期において薩英戦争や戊辰戦争に従軍して実戦経験を積んだのち、明治維新後の1871年にイギリスへ留学した。ウースター商船学校などで航海術や海軍戦術、さらには国際法などを約7年間にわたって学んだ。当時のイギリスは世界有数の海洋帝国であり、ここで得た近代海軍の知識と経験が、後の指揮官としての確固たる基礎を形成することとなった。

日清戦争での活躍と国際法の遵守

1894年に勃発した日清戦争において、東郷は巡洋艦「浪速」の艦長として出征した。この時、清国兵を輸送していたイギリスの商船・高升号に対して停船と退去を命じたが拒否されたため、これを撃沈するという高升号撃沈事件を起こした。当初はイギリス世論を刺激し重大な外交問題になりかけたが、東郷の行動が戦時国際法に完全に合致していたことがイギリスの国際法学者によって証明された。これにより、日本の国際法遵守の姿勢と東郷の沈着冷静な判断力が欧米列強に高く評価される結果となった。

日露戦争と連合艦隊司令長官の拝命

1903年、日露関係が極度に悪化し開戦が避けられない情勢となる中、当時の海軍大臣・山本権兵衛は、舞鶴鎮守府司令長官であった東郷を常備艦隊(のちの連合艦隊)司令長官に大抜擢した。この人事は「東郷は運のいい男だから」という山本の言に象徴されることが多いが、実際には東郷の冷静沈着な性格、豊富な実戦経験、そして高升号事件で見せた国際法の熟知が高く評価された結果であった。1904年に日露戦争が開戦すると、東郷はロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)を封じ込める作戦を展開し、日本の制海権確保に尽力した。

日本海海戦の完全勝利と「丁字戦法」

東郷の軍歴における最大のハイライトが、1905年5月の日本海海戦である。ロシアがヨーロッパから長距離回航してきた世界有数の大艦隊であるバルチック艦隊に対し、東郷は敵艦隊の進路を塞ぐように急旋回して横陣を敷く「丁字戦法(敵前大回頭、いわゆるトーゴー・ターン)」を敢行した。参謀・秋山真之らの優れた作戦立案にも助けられ、猛烈な集中砲火によってバルチック艦隊を事実上全滅させるという、世界の海戦史上類を見ない完全勝利を収めた。この圧倒的な勝利は、日本を日露戦争の講和(ポーツマス条約締結)へと導く決定的な要因となった。

晩年の神格化と昭和海軍への影響

日本海海戦の勝利によって東郷は世界的名声を得て、国内では「生きた軍神」として英雄視された。晩年は元帥海軍大将として海軍内に絶対的な権威を持ったが、その過剰な神格化は思わぬ副作用をもたらした。1930年のロンドン海軍軍縮条約締結を巡る統帥権干渉問題などにおいて、軍縮に反対する「艦隊派」の精神的支柱としてその権威が利用されたのである。彼個人の意思とは裏腹に、東郷の巨大な存在感が昭和期の大日本帝国海軍における組織の硬直化と急進派の台頭に少なからず影響を与えたという歴史的皮肉も見逃せない。

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日露戦争の決戦の全貌を克明に描き、国家の命運を賭けた壮絶な海戦の記録と英雄たちの矜持に迫る一冊。

東郷平八郎

幕末から明治という激動の時代を駆け抜け、神格化された名将の生涯と人間味あふれる実像に深く切り込む評伝。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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