徳川家治 (とくがわいえはる)
【概説】
江戸幕府の第10代将軍。側近であった田沼意次を側用人から老中へと抜擢し、幕政の実権を委ねた人物。その治世は「田沼時代」と呼ばれ、幕府の財政再建に向けて重商主義的な経済政策が展開された画期的な時期にあたる。
祖父・吉宗の期待と将軍就任
徳川家治は、第9代将軍・徳川家重の長男として生まれた。幼少期から非常に利発であったと伝えられており、祖父である第8代将軍・徳川吉宗から深い寵愛と直接の教育を受けて育った。吉宗は、言語不明瞭であったとされる家重の将軍としての資質に不安を抱いていたが、孫の家治が極めて優秀であったことが、結果的に家重への将軍職譲渡を決断させる大きな要因になったと言われている。
1760年(宝暦10年)、父・家重の隠居に伴い第10代将軍に就任した。治世の初期は、吉宗時代からの重臣である老中首座・松平武元らの補佐を受け、堅実な政務を行っていた。しかし、やがて側近として自らに仕えていた田沼意次の才覚を高く評価し、幕政の表舞台へと引き上げていくことになる。
田沼意次の重用と「田沼時代」の幕開け
家治の治世における最大の歴史的意義は、身分の低い出自であった田沼意次を異例の出世をさせて重用し、幕政改革を委ねた点にある。家治は1767年(明和4年)に意次を側用人に、さらに1772年(安永元年)には老中に就任させた。側用人と老中を兼任するという異例の権力集中を認めた背景には、家治の意次に対する全幅の信頼があった。
意次が主導した幕政は、従来の農業依存・年貢増徴路線の限界を見据え、商業資本を積極的に幕府の財政基盤に組み込もうとする重商主義的政策であった。具体的には、商人や職人の同業者組合である株仲間を積極的に公認して冥加金(営業税)を徴収し、長崎貿易においては銅や俵物(海産物)の輸出を奨励して金銀の流出を防ぎ、さらに蝦夷地の開発計画や印旛沼・手賀沼の干拓事業などに着手した。家治が意次の政策に理解を示し、その防波堤となったからこそ、これらの一連の革新的な経済政策が実行可能であったといえる。
相次ぐ天変地異と社会不安
しかし、家治の治世後半は度重なる自然災害に見舞われた時期でもあった。1782年(天明2年)頃から冷害による天明の飢饉が始まり、東北地方を中心に多数の餓死者が発生した。さらに1783年(天明3年)には浅間山の天明大噴火が起こり、関東一円に甚大な被害をもたらした。こうした天変地異は農村を荒廃させ、全国各地で百姓一揆や都市部での打ちこわしが頻発する事態を招いた。
意次の政策によって都市部で商業は発展し貨幣経済は浸透したものの、結果として貧富の差が拡大し、役人と商人との癒着による賄賂政治も横行した。天災と相まって民衆の不満は頂点に達し、幕府への批判は次第に実権を握る田沼意次、そしてそれを信任する家治の体制そのものへと向かっていった。
最期と歴史的評価
1786年(天明6年)、家治は50歳で病死した。実子の家基がすでに急死していたため、一橋家から迎えた養子の家斉が第11代将軍の座に就いた。家治の後ろ盾を失った田沼意次は、反田沼派の松平定信らによって即座に失脚させられ、「田沼時代」は終わりを告げた。その後、幕政は定信による儒教的・農本主義的な寛政の改革へと大きく転換することになる。
長らく歴史的評価において、家治は「意次に政治を丸投げし、自らは将棋や絵画などの趣味に没頭した暗愚な将軍」と否定的に描かれることが多かった。しかし近年の研究では、家治自身も政務に関する決裁を真摯に行っていたことや、将軍としての権威を維持しながら意次の革新的な政策を支え続けた「開明的な君主」としての側面が見直されつつある。江戸中期において、幕府財政の転換を図る大きな挑戦が行われた背景には、家治という存在が不可欠であった。