田沼時代
【概説】
江戸時代中期、10代将軍徳川家治のもとで、田沼意次が幕政の実権を握っていた約20年間のこと。旧来の農業依存の財政から脱却を図り、商業資本を積極的に利用する重商主義的な政策が展開された。経済の活性化や自由な文化の開花をもたらした一方で、賄賂の横行や大規模な自然災害による社会不安が重なり、意次の失脚とともに幕を閉じた。
幕府財政の転換と重商主義的政策
8代将軍徳川吉宗による「享保の改革」は、新田開発や定免法などの年貢増徴策によって一定の成果を上げたが、農業生産のみに依存する幕府財政の構造はもはや限界に達していた。これに代わって登場した田沼意次は、幕府の財源を急成長していた都市の商業資本に求めるという、画期的な転換を図った。
具体的には、商人や職人による株仲間の結成を積極的に奨励・公認し、営業の独占権を与える見返りとして運上や冥加といった営業税を徴収した。また、銅・鉄・真鍮・朝鮮人参などの専売制(座の設立)を拡大し、流通を統制することで幕府の直轄財源を増やそうと試みた。さらに、長崎貿易においては、金銀の海外流出を防ぐため、銅や俵物(いりこ・干しあわび・フカヒレなどの海産物)の輸出を奨励し、貿易の黒字化を目指した。印旛沼・手賀沼の干拓事業に見られるように、大規模な土木工事に豪商の資金力を導入するなど、徹底して経済合理性を追求した点が田沼政治の大きな特徴である。
蝦夷地開発と対外関係の模索
田沼時代のもう一つの注目すべき点は、対外関係や国防に対する柔軟で先進的な視野である。当時、ロシアが南下政策をとって千島列島に接近しつつあった。仙台藩の医師・工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』によってロシアの脅威と蝦夷地(現在の北海道)の重要性を知った意次は、幕府の政策として蝦夷地の直接開発と対ロシア交易の可能性を模索した。
天明5年(1785年)、意次は最上徳内らからなる調査団を蝦夷地や千島・樺太へ派遣した。これは、単なる北方防衛の観点だけでなく、未開拓の蝦夷地を開発して新たな産物を獲得し、それを長崎貿易やロシアとの交易に充てて幕府を富ませるという、重商主義的ビジョンの延長線上にあった。鎖国体制という枠組みの中で、これほど積極的に対外交易の拡大を志向したことは極めて特異であり、進歩的な政策であったと評価されている。
自由な気風と宝暦・天明期の文化
田沼期は、幕府が実学や活発な経済活動を容認したこともあり、社会全体に自由で開放的な気風が満ちていた。この時代に江戸を中心として花開いたのが、町人主導の宝暦・天明期の文化である。
学問の分野では実証主義を重んじる気運が高まり、杉田玄白や前野良沢らによる『解体新書』の刊行(1774年)を契機に、蘭学が飛躍的に発展した。また、平賀源内のように、本草学や物理学(エレキテル)、鉱山開発など多方面で才能を発揮し、西洋の知識を実社会に応用しようとする人物も活躍した。
文学や芸術の分野でも、豊かな経済力を背景に、遊里の風俗を描いた洒落本(山東京伝など)や、風刺の効いた絵入り小説である黄表紙(恋川春町など)、川柳・狂歌などが大流行した。錦絵(多色刷り版画)の技法が鈴木春信によって確立されたのもこの時期であり、江戸の都市文化は成熟の極みに達した。
天明の飢饉と田沼政治の終焉
先進的な経済政策と文化的な繁栄をもたらした一方で、田沼時代は深刻な社会矛盾を抱えていた。利益追求を重んじ金銭が万事を動かす風潮は、役人の間での賄賂の横行や汚職を招き、人々の間には「金権政治」への不満が鬱積していった。
さらに、天明2年(1782年)から始まった異常気象や、翌年の浅間山の大噴火などを引き金として、全国規模の天明の飢饉が発生した。東北地方を中心に多数の餓死者が出たが、幕府の救済策は後手に回り、米価の異常高騰に伴って都市部では激しい打ちこわしが頻発した。こうした社会不安の最中、天明4年(1784年)に意次の息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で暗殺される事件が起き、田沼の権勢に陰りが見え始めた。
そして天明6年(1786年)、最大の後ろ盾であった10代将軍・徳川家治が死去すると、反田沼派の譜代大名らの巻き返しに遭い、意次は老中を罷免されて失脚した。ここに田沼時代は完全に終焉を迎え、幕政は松平定信による厳格で復古的な「寛政の改革」へと移行することになる。