清水家
【概説】
江戸幕府9代将軍・徳川家重の次男である徳川重好を初代として創設された、徳川将軍家の家族・家格である「御三卿」の一つ。田安家、一橋家とともに、徳川将軍家に後継者が途絶えた際に養子を出す役割を担った名門。江戸城の清水門内に屋敷を構えたことからその名で呼ばれた。
御三卿の成立と清水家の創設
江戸幕府における将軍家の中継ぎや後継者輩出のシステムとしては、初期に創設された「御三家(尾張・紀伊・水戸)」が知られている。しかし、8代将軍徳川吉宗は、将軍の直系に近い血筋から後継者を確保することを目的として、自身の息子たちを始祖とする新たな家格「御三卿」を創設した。吉宗の次男・宗武が創設した田安家、四男・宗尹が創設した一橋家に続き、9代将軍徳川家重の次男・重好が1759年(宝暦9年)に江戸城清水門内に邸宅を与えられたことで、3番目の御三卿として清水家が成立した。
清水家をはじめとする御三卿は、一般的な大名とは異なり、独自の領国(藩領)や独立した支配機構を持たなかった。幕府から10万石の賄料(領地ではなく、特定の直轄領から得られる年貢など)を支給され、家臣も幕府から派遣されるなど、実質的には将軍家の大家族の一部として位置づけられていた点が大きな特徴である。
後嗣問題と清水家の歴史的展開
清水家は将軍の血統を維持するためのプールとしての役割を期待されていたが、その歴史は必ずしも順調ではなかった。初代・重好には実子がなく、11代将軍徳川家斉の五男である敦之助、さらにその死後は斉順(後の紀伊藩主)などが次々と養子に入った。しかし、当主が急逝したり他家を継いだりしたため、度々当主不在の「明家(あきいえ)」状態に陥るなど、田安家や一橋家に比べて存続が不安定であった。
幕末期には、15代将軍徳川慶喜の弟である徳川昭武(清水武昭)が清水家を相続した。昭武は1867年にパリ万国博覧会派遣の将軍名代として渡欧したが、滞在中に明治維新を迎えた。その後、水戸藩主を継いでいた実兄の徳川慶篤が急逝したため、昭武が水戸徳川家を相続することとなり、清水家は再び当主不在となった。明治維新後は新政府によって一時的に再興が認められ、明治期の華族制度のもとで男爵を授けられた。