伊治呰麻呂 (これはりのあざまろ)
【概説】
奈良時代末期の陸奥国における蝦夷の族長。朝廷に服属して伊治郡の大領(郡司の長官)に任じられていたが、朝廷側からの差別的待遇に憤り、780年に反乱を起こして多賀城を焼き討ちした人物である。
帰順から反逆へ:融和政策の限界と呰麻呂の憤怒
8世紀後半の東北地方において、律令国家(朝廷)は東北支配を安定させるため、現地に暮らす蝦夷の族長を「帰俘(きふ)」として懐柔し、郡司などの地方官員に任じる政策をとっていた。伊治呰麻呂もその一人であり、朝廷に服属して陸奥国の伊治郡大領に任じられ、外従五位下という高位を与えられていた。
しかし、朝廷の支配は必ずしも現地の人々を尊重するものではなかった。呰麻呂は、同じ蝦夷出身でありながら朝廷に早くから重用されていた牡鹿郡大領の道嶋大盾(みちしまのおおたて)から「俘囚」として差別され、侮蔑的な扱いを受け続けていた。また、当時の陸奥守であった百済王俊哲ら朝廷官人の姿勢にも深い不満を抱いていた。こうした内実的な不平等と抑圧が、服属していた呰麻呂を反乱へと駆り立てる契機となった。
多賀城焼き討ちと三十八年戦争の幕開け
780年(宝亀11年)、呰麻呂は伊治城(現在の宮城県栗原市築館付近)で反乱を起こした。彼は自らを侮辱した道嶋大盾や、出羽国から下向していた陸奥按察使の紀広純(きのひろずみ)を襲撃して殺害した。さらに勢いに乗った呰麻呂の軍勢は、東北における朝廷支配の拠点であった多賀城へと進撃した。城を奪取した彼らは、兵器や兵糧を奪った上で多賀城に放火し、これを灰燼に帰した。この一連の出来事は「伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)」と呼ばれる。
呰麻呂の乱は、単なる地方の一反乱にとどまらず、朝廷の東北政策を根底から揺るがす大事件となった。多賀城陥落の急報に衝撃を受けた朝廷は、国家の威信をかけて大規模な軍事的掃討へと方針を転換せざるを得なくなった。この乱を契機として、その後アテルイの活躍などで知られる桓武天皇期の本格的な蝦夷征討、すなわち「三十八年戦争」と呼ばれる長期にわたる凄惨な軍事衝突の時代へと突入していくこととなる。