無宿人 (むしゅくにん)
【概説】
江戸時代において、宗門改帳(人別帳)から登録を抹消され、特定の居住地や親族関係を持たなくなった困窮者や浮浪人の総称。飢饉による農村荒廃や親族からの勘当などを契機に発生し、江戸をはじめとする大都市へ流入して治安上の大きな社会問題となった。
無宿人の発生要因と「帳外れ」の仕組み
江戸時代の日本社会は、すべての領民が家単位で宗門改帳(人別帳)に登録され、居住地と身分を保障されることで秩序が維持されていた。しかし、家業の失敗や困窮による離村、あるいは犯罪や素行不良による親族からの「勘当(離籍)」によって人別帳から名前が削られる事態が生じた。これを「帳外れ(ちょうはずれ)」と呼び、これによって公的な身分や居住地を失った人々が無宿人となった。
特に18世紀半ば以降、度重なる飢饉や商品経済の発達にともなう農村の階層分化によって、土地を失い食い詰めた農民が不法に居住地を離れ、仕事を求めて江戸などの大都市へ大量に流入した。無宿人の多くは日雇い労働などでその日暮らしを送ったが、困窮して犯罪に手を染める者や、博徒(ヤクザ)の配下に入る者も多く、都市の治安を脅かす深刻な社会問題へと発展していった。
幕府の治安対策と「人足寄場」の設置
無宿人の増加に対し、江戸幕府は当初、強制的な帰農政策(旧里帰農令など)や取締りの強化を進めた。1778年(安永7年)からは、捕らえた無宿人を佐渡金山へ送り、過酷な排水作業に従事させる「水替人足(みずかえにんそく)」の制度を開始した。これは事実上の刑罰であり、無宿人を社会から排除する政策であった。
しかし、天明の飢饉を経て江戸の治安悪化が極限に達すると、単なる排除ではなく、彼らに職業技術を授けて自立を促す更生政策へと舵が切られた。寛政の改革期である1790年(寛政2年)、火付盗賊改の長谷川宣以(平蔵)の建議により、江戸の石川島(現在の東京都中央区)に人足寄場(にんそくよせば)が設置された。ここでは無宿人を収容し、大工や左官、草履作りなどの職業訓練を施すとともに、作業手当の一部を積み立てさせて退所時の自立資金とさせた。この試みは、福祉的側面を併せ持つ先駆的な更生保護制度として歴史的に高く評価されている。