阿仁銅山
【概説】
秋田県北部に位置し、江戸時代から明治期にかけて日本有数の産出量を誇った銅山。明治維新後に官営化されて近代化が進められた後、政商の古河市兵衛へと払い下げられ、古河財閥形成の基盤となった。
江戸時代の繁栄から明治政府による官営化
阿仁銅山は、室町時代に発見されたと伝えられ、江戸時代には秋田藩(久保田藩)の藩営鉱山として隆盛を極めた。特に江戸中期には長崎貿易用の輸出用銅を大量に供給し、日本屈指の銅山としてその名を知られた。しかし、幕末期には技術の行き詰まりや水害などにより、産出量は一時低下していた。
明治維新を迎えると、新政府は国内の主要な鉱山を国家主導で開発するため、阿仁銅山を接収して官営鉱山とした。工部省の管轄のもと、ドイツ人技術者のアドルフ・メッツガーらを招聘し、洋式の製錬技術の導入や、日本初とされる鉱山鉄道の敷設などの近代化投資を積極的に行った。
官営事業の払い下げと古河財閥の台頭
明治政府による官営事業は、莫大な初期投資に対して十分な利益を上げられず、国家財政の圧迫を招いた。このため、1880年の「工場払下概則」の制定以降、軍事・通信を除く多くの官営事業が民間へ払い下げられることとなった。
阿仁銅山もその一環として、1885(明治18)年に実業家の古河市兵衛に払い下げられた。古河はすでに買収していた足尾銅山の近代化にも着手しており、この阿仁銅山の買収によって鉱山王としての地位を不動のものにした。この払い下げは、政府主導の「殖産興業」から民間資本を中心とする「資本主義の形成」へと、日本の産業構造が大きく転換する過渡期の出来事であった。