古河市兵衛 (ふるかわいちべえ)
1832~1903
【概説】
幕末から明治期にかけて活躍し、のちの古河財閥の基礎を築いた実業家。明治政府の殖産興業政策を背景に、足尾銅山をはじめとする鉱山の開発に成功し「鉱山王」と称された人物。近代産業の発展を牽引した一方で、日本初の本格的な公害問題となった足尾銅山鉱毒事件の当事者としても知られる。
官営鉱山の払い下げと「鉱山王」への軌跡
京都の商家に生まれた古河市兵衛は、生糸商や三井組(のちの三井財閥)での活動を経て独立した。明治政府が推進する官営事業の民営化(官営物払下令など)の流れに乗り、1877年(明治10年)に栃木県の足尾銅山の経営に着手したほか、秋田県の阿仁銅山などの官営鉱山の払い下げを受けた。
市兵衛は、当時まだ未熟であった日本の鉱山技術に、西洋の最新鋭の機械や製錬技術を積極的に導入した。また、フランスの貿易商社などと手を結んで販路を海外に広げ、足尾銅山を日本最大の銅山へと急成長させた。この成功により、市兵衛は「鉱山王」の異名を取り、住友・三菱などと並ぶ鉱山大国日本の立役者となり、のちの古河財閥へと発展する礎を築いた。
足尾銅山鉱毒事件と近代化の「影」
古河市兵衛による鉱山開発は日本の近代化と富国強兵を支える財政的・産業的基盤となったが、同時に深刻な公害問題を巻き起こすこととなった。足尾銅山の開発にともない、製錬の過程で生じた廃液や鉱毒ガスが渡良瀬川に流出し、下流の農漁業に壊滅的な被害を与えた。これが日本初の公害問題とされる足尾銅山鉱毒事件である。
衆議院議員の田中正造らによる猛烈な糾弾や、被害住民による大挙しての直訴・請願運動に対し、市兵衛は政府の命令に応じて多額の鉱毒予防工事を行うなどの対応に追われた。市兵衛の歩んだ生涯は、明治政府が急速に推し進めた殖産興業政策の「光と影」を象徴する縮図であったといえる。