大日本恵登呂府 (だいにほんえとろふ)
1798年
【概説】
江戸時代中期の1798年(寛政10年)、幕臣の近藤重蔵らが千島列島の択捉島に建立した木製の領有宣言標柱。当時、千島列島を南下しつつあったロシア帝国に対し、同島が日本領(大日本帝国・江戸幕府の支配領域)であることを強く主張した象徴的な歴史的史料である。
ロシアの南下と寛政の北方調査
18世紀後半、ロシアの商人が毛皮を求めて千島列島を南下し、アイヌとの交易やキリスト教の布教を進めていた。1792年にはラクスマンが根室に来航して通商を求めるなど、北方の緊張が高まっていた。これに対し、江戸幕府は寛政の改革を進める松平定信らのもとで北方防備を強化した。
幕府は1798年、大規模な蝦夷地調査団を派遣した。その中心人物が幕臣の近藤重蔵であり、優れた北方探検家であった最上徳内を案内役に据えて択捉島へと渡った。彼らは同島におけるロシアの影響力を排除し、幕府の直接支配を及ぼすための布石を打つこととなった。
「大日本恵登呂府」建立の経緯と領有権の主張
択捉島の最北端近く(タンネモイ)に到達した近藤重蔵らは、そこに「大日本恵登呂府」と大書した木柱(国標)を建てた。これは、国際法における「先占(他国が領有していない土地を占有すること)」の意思表示であり、ロシアに対する明確な国境提示の意図を持っていた。
この国標建立の翌年(1799年)、幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄地(公領)とし、北方警備をさらに本格化させていく。近藤らが打ち立てた「大日本恵登呂府」の文字は、近代以降における日本の千島列島領有の歴史的正当性を補強する重要な根拠として、のちの北方領土問題においてもたびたび言及される歴史的出来事となった。