間宮林蔵

幕府の命で樺太(サハリン)を探検し、大陸との間に海峡が存在することを発見して、樺太が島であることを確認した探検家は誰か?
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重要度
★★★

間宮林蔵 (まみやりんぞう)

1780〜1844

【概説】
江戸時代後期の幕府の隠密、探検家。蝦夷地や樺太の探検を行い、ユーラシア大陸と樺太との間に海峡が存在することを発見して樺太が島であることを証明した。その地理的発見はヨーロッパにも伝えられ、世界地図にその名を残している。

北方警備の要請と探検家への道

間宮林蔵は常陸国筑波郡(現在の茨城県つくばみらい市)の農民の出身であったが、幕府の関東郡代である伊奈忠尊に見出されて幕府の普請役となり、土木・測量事業に従事した。江戸に出てからは、全国を測量していた伊能忠敬に師事して高度な天文学や測量技術を学んだ。当時の日本は、ロシア帝国の南下政策(ラクスマンやレザノフの来航など)に直面しており、幕府は北方警備の強化と蝦夷地(現在の北海道およびその周辺)の地勢把握に迫られていた。このような時代背景の中、幕府は蝦夷地を直轄化し、間宮もまた北方地域の調査という国家的事業に抜擢されることとなった。

樺太探検と「間宮海峡」の発見

1808(文化5)年、間宮は幕府の命を受け、松田伝十郎とともに樺太(サハリン)の探検に出発した。当時のヨーロッパや日本では、樺太が大陸と陸続きの半島であるのか、それとも独立した島であるのかが長らく不明であった。間宮らは樺太西岸を北上して調査を進め、翌1809(文化6)年には間宮が単身でさらに北へ向かい、樺太とユーラシア大陸の間に海峡が存在することを自らの目で確認した。これにより、樺太が島であることが歴史上初めて証明されたのである。

さらに間宮は海峡を渡って大陸側の黒竜江(アムール川)下流域にあるデレンという地にまで足を踏み入れた。そこで清朝の役人や先住民族と接触し、アイヌを介して行われていた大陸との交易(山丹交易)の実態を詳細に調査した。この探検の成果は『東韃地方紀行』や『北夷分界余話』としてまとめられ、幕府の北方政策や地理的知識の向上に多大な貢献を果たした。

シーボルトによる世界的評価

間宮林蔵の発見は、鎖国下の日本にとどまらず世界的な意義を持っていた。のちに長崎のオランダ商館医として来日したドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、間宮の探検記録や地図に触れ、その測量精度と発見の重要性に驚愕した。シーボルトは帰国後に著した『日本』などの著作を通じて間宮の業績をヨーロッパ社会に紹介し、その海峡を「マミヤ海峡(Strait of Mamiya)」と命名して世界地図に記した。これにより間宮林蔵は、世界地図に日本人の名が冠された数少ない人物の一人となった。

晩年の隠密活動とシーボルト事件

北方探検で多大な功績を挙げた間宮は、その後、幕府の隠密(御庭番格)として諸国を巡り、密貿易の監視や各藩の内情調査などに従事した。しかし、彼の名が別の形で歴史の表舞台に出る出来事が発生する。1828(文政11)年のシーボルト事件である。シーボルトが国外に持ち出そうとした荷物の中から、国外持ち出し厳禁とされていた伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」などの機密品が発見されたこの事件において、間宮林蔵がその事実を幕府に密告したとする説が有力視されている。かつて自らの業績を世界に紹介してくれたシーボルトや、恩師である伊能忠敬の周辺の人々を結果的に追い詰めることになった間宮の行動は、幕臣としての忠誠心と隠密としての冷徹な職務遂行を物語っている。

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樺太の過酷な環境を切り開き、地図の空白を埋めた探検家・間宮林蔵の不屈の魂と偉業を辿る決定版の評伝。

間宮林蔵・探検家一代: 海峡発見と北方民族 (中公新書ラクレ 297)

北方の極寒の地で真実を追い求めた先駆者の足跡を、最新の研究から鮮やかに浮かび上がらせる探検記の集大成。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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