東蝦夷地

ロシアの脅威に備えるため、1799年に幕府が松前藩から取り上げて直轄地(上知)とした、蝦夷地の太平洋側地域を何というか?
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重要度
★★

東蝦夷地 (ひがしえぞち)

1799年直轄化

【概説】
蝦夷地(現在の北海道・千島列島など)のうち、太平洋側に位置する地域。18世紀末のロシアの南下に対し、江戸幕府が北方防備と領有権強化を目的に、1799年に松前藩から没収して直轄領とした地。日本の北方国境の画定と対外防衛体制の近代化を促す契機となった地名である。

ロシアの南下と「東蝦夷地」の危機

18世紀後半、シベリアを経由して太平洋へと進出したロシア(赤蝦夷)の南下情報が日本に伝わるようになった。仙台藩の医師・工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』や、林子平による『海国兵談』などの警告により、江戸幕府は北方警備の必要性を強く認識し始める。特に1792年、ロシア使節のラクスマンが根室に来航し、通商を求めてきたことは幕府に決定的な衝撃を与えた。

当時、蝦夷地は松前藩の支配下(松前藩領および場所請負地)にあったが、藩の財政難やアイヌに対する過酷な和人通訳・商人の搾取により、アイヌの反発(1789年のクナシリ・メナシの戦いなど)を招いていた。もしロシアがアイヌと結託すれば、日本の北方領土が脅かされる懸念があった。こうした中で、寛政の改革を主導していた老中・松平定信らは、蝦夷地の本格的な調査を命令。太平洋側にあたり、千島列島を南下するロシア領土と近接していた「東蝦夷地」(現在の浦河から知床、国後島、択捉島にかけての地域)が、安全保障上の最前線として浮上することとなった。

1799年の東蝦夷地上知と直轄化政策

1799年(寛政11年)、11代将軍・徳川家斉のもとで幕府は東蝦夷地を7年間の期限付きで上知(じょうち)(直轄化)することを決定した。これはのちに、1802年に恒久的な直轄領とされ、現地を管轄する機関として箱館奉行(のちに松前奉行)が設置された。

幕府は東蝦夷地の支配にあたり、単なる軍事防衛だけでなく、内政の改革も断行した。それまでの商人による不当な搾取を是正し、アイヌに対する撫育(ぶいく)政策を推進した。具体的には、アイヌの習慣を尊重しつつ、米や風邪薬などを与えて懐柔を図り、彼らを「日本臣民」として取り込むことで、ロシアへの帰属を防ごうとしたのである。

同時に、探検家の最上徳内近藤重蔵らを派遣して北方地域の調査を進め、択捉島に「大日本恵登呂府」の国境標柱を建てさせた。また、商人の高田屋嘉兵衛に命じて国後島・択捉島間の航路を開拓させ、北方領土の確実な領有化を推し進めた。

直轄領の変遷と幕末へのつながり

東蝦夷地の直轄化を皮切りに、幕府は1807年に日本海側である西蝦夷地も直轄化し、蝦夷地全域を自らの支配下に置いた。しかし、1811年のゴローニン事件とその解決(高田屋嘉兵衛の尽力)を経て日露関係が一時的に安定すると、北方警備にともなう多大な財政負担を嫌った幕府は、1821年に蝦夷地全域を松前藩に返還した。

だが、幕末の1853年にペリーが来航し、再び対外的な危機が高まると、日露和親条約(1855年)の締結によって国境が択捉島と得撫(うるっぷ)島の間と定められた。これにより、幕府は領有権の維持と防衛強化のため、再度蝦夷地全域(東蝦夷地を含む)を直轄領とした(第二次幕領化)。この時、東北の諸藩(仙台藩、会津藩、秋田藩など)に東蝦夷地の警備が分割して命じられた。このように東蝦夷地をめぐる一連の幕府の直轄化政策は、近代国家・日本へと脱皮していく過程における、北方領土防衛および開拓政策の出発点となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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