戊戌夢物語 (ぼじゅつゆめものがたり)
【概説】
江戸時代後期の1838年(天保9年)に、蘭学者の高野長英が執筆した匿名政論書。モリソン号事件における幕府の異国船打払令に基づく強硬な対応を、夢のなかでの対話という形式を借りて批判した。
執筆の背景とモリソン号事件
1837年(天保8年)、アメリカの商船モリソン号が、マカオで保護されていた日本人漂流民(音吉ら)の送還と通商開始を目的として浦賀および薩摩に来航した。しかし、1825年に出されていた異国船打払令に基づき、幕府および薩摩藩は砲撃を加えて同船を退去させた。翌1838年、オランダ商館長からの風説書によって、モリソン号が非武装の船であり、漂流民の返還という人道的な目的を持っていたことが幕府にもたらされた。この情報に接した高野長英や渡辺崋山ら、蘭学の知識を持つ「尚歯会(しょうしかい)」の知識人たちは、国際社会の実情を無視した幕府の無謀な対応に強い危機感を抱き、本書が執筆されることとなった。なお、書名の「戊戌(ぼじゅつ)」は、執筆年である1838年の干支に由来している。
夢物語形式による政策批判
当時の厳格な言論統制下において、幕府の対外政策を直接批判することは極めて危険であった。そのため長英は、ある老人が見た夢の中で複数の知識人たちが時事問題について対話をするという、いわゆる夢物語形式を採用し、著者を匿名にして本書を記した。作中ではモリソン号をイギリスの船であると誤認しているものの(これは当時のオランダ風説書の情報に基づく限界であった)、世界中に植民地を持つイギリスの強大な国力を背景に報復を受ける危険性を指摘し、人道的な観点からも打ち払いをやめて漂流民を受け入れ、穏便な対応をとるべきであると論理的に主張している。現実的な国際認識に基づいた、鋭い政策批判であった。
写本の流布と『慎機論』との違い
同時期に、長英の盟友である渡辺崋山も同じくモリソン号事件への対応を憂いて『慎機論』を執筆している。しかし、『慎機論』が難解な漢文調で書かれ、未定稿のまま崋山の手許に留め置かれていたのに対し、『戊戌夢物語』は物語風の平易な和文で書かれていた。そのため、当時の開明的な大名や知識人たちの間で瞬く間に写本が作成され、広く流布した。この「広く読まれた」という事実が、後に幕府の保守派の神経を大きく逆撫ですることになる。
蛮社の獄への発展と歴史的意義
幕府の政策を公然と批判する書物が世間に出回ったことは、鳥居耀蔵ら保守的な幕閣の警戒と反発を招いた。その結果、翌1839年(天保10年)に蛮社の獄と呼ばれる大規模な蘭学者弾圧事件が引き起こされる。著者が高野長英であることが露見し、長英は終身刑である永牢(のちに脱獄)、渡辺崋山も家宅捜索で『慎機論』が発見されて蟄居(のちに自刃)という重い処分を受けた。『戊戌夢物語』は、鎖国体制の矛盾が露呈しつつあった江戸時代後期の対外危機において、世界情勢を正しく認識しようとした先覚者の思想を伝える重要な史料であるとともに、幕末の動乱を予兆する言論弾圧の直接的な契機となった一書として日本史上で高く評価されている。