関口大砲製造所 (せきぐちたいほうせいぞうしょ)
【概説】
幕末に江戸の関口(現在の東京都文京区)に設置された、江戸幕府直営の西洋式兵器製造工場。水戸藩が建設した大砲鋳造場を幕府が買収・拡充したものであり、大砲や小銃、弾薬などの量産を行った。神田上水の水力を利用した近代的な機械工業の先駆であり、日本の軍事近代化における重要な足跡を示す遺跡である。
水戸藩から幕府への移管と洋式兵器の国産化
1853年のペリー来航以降、対外緊張が高まるなかで、西洋式軍備の導入は江戸幕府および諸藩にとって急務となった。当初、水戸藩主の徳川斉昭は江戸小石川の藩邸内に大砲鋳造場を設けていたが、1855年の安政の大地震によって被災したため、1857(安政4)年に神田上水に隣接する関口(現在の文京区関口)の地に「関口大砲鋳造所」として移転・再建した。
1862(文久2)年、幕府は軍制改革の一環としてこの鋳造場を水戸藩から買収し、自らの直営組織である「関口大砲製造所」(のちに関口製造書)へと改編した。ここでは、西洋から導入された最新技術を用い、青銅製の大砲だけでなく、小銃の製造や銃身の穿孔(穴あけ)作業が大規模に行われ、幕府軍の近代化を支える兵器供給源となった。
水力の利用と明治期「東京砲兵工廠」への系譜
関口大砲製造所の最大の特徴は、隣接する神田上水の水流を利用した水車を動力源とした点にある。この水車動力をギヤで伝達することにより、金属加工用の穿孔機(錐揉機械)などの大型機械を稼働させた。これは、人力や牛馬の力に頼っていた従来の鋳造・加工技術から、自然エネルギーを利用した初期の近代工業生産への大転換を意味している。
1868(明治元)年の明治維新に際して、関口大砲製造所は新政府に接収され、一時的に「新政府軍務官兵器司」の管轄となった。その後、製造機能は旧水戸藩小石川邸の跡地に新設された東京砲兵工廠(のちの小石川工廠)へと統合・移転されていく。関口大砲製造所は、江戸幕府の崩壊とともにその役割を終えたが、そこで培われた技術者や機械設備、そして近代的なものづくりのノウハウは、明治国家の軍事産業および重工業へと受け継がれていくこととなった。