古医方 (こいほう)
【概説】
江戸時代中期に興った、日本の漢方医学の一派。それまで主流であった中国の宋・明代に由来する観念的な医学理論を排し、漢・唐代の古典(特に『傷寒論』)に立ち返って実証的な臨床治療を重視した。名古屋玄医によって先駆的に唱えられ、吉益東洞らによって大成された。
宋明医学への批判と「古典回帰」の思想
江戸時代初期の医学界では、室町時代末期に曲直瀬道三らによって体系化された「後世派(ごせいは)」が主流を占めていた。後世派は中国の金・元時代に発達した医学(李朱医学)を基礎とし、陰陽五行説や万物の方程式とも言える精緻な自然哲学的な理論を重んじていた。これに対し、17世紀後半に京都の医師である名古屋玄医(なごやげんい)は、こうした形而上学的な解釈を空論として排し、漢代の張仲景が著したとされる実践的な医学古典『傷寒論(しょうかんろん)』などの原典に立ち返るべきだと提唱した。これが古医方の始まりである。この「解釈を排して原典に直接学ぶ」という姿勢は、同時代の儒学界において朱子学などの宋明理学を批判して孔子・孟子の原典へと立ち返ろうとした伊藤仁斎や荻生徂徠らの「古学(聖学・古文辞学)」の潮流と同調するものであり、元禄期前後の思想的転換を反映した動きであった。
吉益東洞と「万病一毒説」による実証主義の徹底
18世紀に入ると、古医方はさらなる革新を遂げる。その中心人物となったのが、安芸国(現在の広島県)出身の医師・吉益東洞(よしますとうどう)である。東洞は、五臓六腑や陰陽五行といった伝統的な中国医学理論さえも「目に見えない主観的な空論」として徹底的に否定した。彼は、あらゆる病気の原因は体内に入り込んだ一つの毒に起因するという「万病一毒説(まんびょういちどくせつ)」を唱え、その毒を排除するために強い薬物(攻撃的な薬剤)を的確に処方する臨床的な医療を確立した。東洞は、客観的に観察できる患者の具体的な症状(証)と薬物の効果のみを信じる「親試実験(自ら試して確かめること)」の精神を強調した。彼の著書『類聚方(るいじゅほう)』や『医断』は当時の医学界に絶大な影響を与え、古医方は当時の医学界において後世派を圧倒する主流派へと成長した。
実証主義の系譜と近代医学(蘭学)への橋渡し
古医方が掲げた「客観的な事実や実験を重んじ、形而上学的な空論を疑う」という実証主義的な精神は、日本の医学を科学的な方向へと大きく一歩進める契機となった。古医方派の医師であった京都の山脇東洋(やまわきとうよう)は、中国古典の記述と実際の人体構造との間に齟齬があることに疑問を抱き、1754(宝暦4)年に京都で日本初となる公認の人体解剖(屍体解剖)を執り行った。東洋はその観察記録を『蔵志』として公表し、それまでの伝統的な漢方医学における主観的な人体観を打ち破った。この実証的な姿勢は、のちに杉田玄白や前野良沢らがオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳して『解体新書』を刊行し、蘭学(西洋医学)を受容していくための批判的精神と知的な土壌を準備することとなった。