平氏政権
【概説】
平安時代末期に平清盛を中心として樹立された、日本の歴史上初となる武家政権。武力により朝廷の実権を握り高位高官を独占する一方、日宋貿易の推進による重商主義的な政策を展開し、古代から中世への転換期を牽引した。
武家政権の誕生と朝廷支配
12世紀半ば、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)という二つの内乱を勝ち抜いた平清盛は、最大の対抗勢力であった源義朝らを排除し、武士階級の頂点に立った。清盛は後白河上皇の院政を武力で支えることで急速に昇進し、1167年には武士として初めて人臣の最高位である太政大臣に就任した。
平氏政権の政治手法は、一族を公卿や諸国の受領に次々と登用し、全国の半分以上にあたる約500の荘園と、30か国以上の知行国を支配するというものであった。さらに清盛は、娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇に入内させ、生まれた皇子を安徳天皇として即位させることで、かつての藤原北家が行った外戚政策をも踏襲した。このように、朝廷の伝統的な統治システムを利用して権力を行使したことから、平氏政権は過渡的な「公家政権的武家政権」と評価されることが多い。
日宋貿易の推進と重商主義的政策
平氏政権が極めて革新的であったのは、土地・農業生産にのみ依存する従来の貴族の経済基盤に加え、商業や貿易による莫大な富の蓄積を重視した点である。清盛は摂津国の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市)を大規模に修築し、瀬戸内海の航路を整備して、南宋との貿易(日宋貿易)を国家規模で強力に推進した。
この貿易により、日本からは砂金や硫黄、刀剣などが輸出され、宋からは陶磁器、絹織物、香料などが輸入された。中でも日本史において最も重要な影響を与えた輸入品が宋銭(銅銭)である。平氏政権が大量の宋銭を国内に流通させたことで、日本社会における貨幣経済の進展が促され、後の中世社会の経済・流通構造を根底から変革する契機となった。
独裁化による反発と政権の崩壊
「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」(平家にあらずんば人にあらず)と評されるほどの権力と富の独占は、次第に各方面からの激しい反発を招くようになった。既得権益を脅かされた旧来の貴族や大寺社(延暦寺や興福寺など)、そして平氏の支配下で恩賞を得られず冷遇されていた地方の武士たちは、不満を鬱積させていった。
1177年の鹿ヶ谷の陰謀を経て、1179年に清盛が武力で後白河法皇を幽閉するクーデター(治承三年の政変)を起こし専制体制を確立すると、ついに決定的な対立が勃発する。1180年、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏打倒の令旨を発し、これを契機に源頼朝や木曾義仲らが全国各地で挙兵した(治承・寿永の乱)。1181年に絶対的指導者であった清盛が熱病で没すると、平氏は急速に衰退し、西国へと追いやられた末に1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡を遂げた。
日本史における歴史的意義
平氏政権はわずか20年余りの短命に終わったものの、日本の政治体制が古代の天皇・貴族を中心とする体制から、中世の武家政権へと移行する過程において極めて重要な役割を果たした。武士が中央の国家権力を掌握し、軍事力と独自の経済基盤によって国を動かすというモデルは、その後に成立する鎌倉幕府によって制度として洗練され、完成していくことになる。平氏政権は、政治・経済の両面において中世社会への扉を開いた先駆的な政権であったと言える。