佐久間象山 (さくましょうざん)
【概説】
信濃国松代藩(現在の長野県)出身の幕末期の思想家・洋学者。「東洋道徳、西洋芸術(技術)」の標語を掲げて和魂洋才の思想を説き、吉田松陰や勝海舟など次代を担う多くの逸材を育成した。開国論や公武合体を主張して国事に奔走したが、尊王攘夷派の反感を買い暗殺された。
朱子学から洋学・兵学への転回
佐久間象山は1811(文化8)年、信濃国松代藩の藩士の子として生まれた。若くして朱子学を学び、江戸に出て佐藤一斎に師事するなど、当初は儒学者としての素養を深めていた。しかし、1840年に清国がイギリスに敗北したアヘン戦争の衝撃が日本に伝わると、象山の関心は海防の危機感から西洋の軍事技術へと向かう。松代藩主であり江戸幕府の老中も務めた真田幸貫から海外事情の研究を命じられた彼は、伊豆の韮山代官・江川英龍(太郎左衛門)に入門して西洋兵学を学んだ。さらにオランダ語を独学で習得し、大砲の鋳造など実践的な技術の吸収に努めた。
「東洋道徳、西洋芸術」の思想
象山は、西洋の圧倒的な軍事力や科学技術を積極的に導入しつつも、精神的な規範は日本の伝統的な倫理観に置くべきだと考えた。彼の思想を象徴する言葉が「東洋道徳、西洋芸術」である(ここでの「芸術」は科学技術や学問体系を指す)。これは、東洋の儒教的・道徳的な精神を基礎としつつ、西洋の合理的な科学技術を利用して富国強兵を図ろうとする思想であった。彼はこの合理主義的な考えのもと、幕府に対して「海防八策」を上書し、西洋兵学の導入や海軍の創設を強く提言した。
吉田松陰の密航未遂と連座
象山の名声が高まるにつれ、彼の開いた私塾には全国から有為の若者が集まった。その中には、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、橋本左内など、のちに幕末から明治維新にかけて重要な役割を果たす人物たちが多数含まれていた。1853(嘉永6)年のペリー来航に際し、象山は愛弟子である吉田松陰に海外視察の必要性を説いた。翌年、松陰は再び来航したペリーの艦隊でアメリカへの密航を企てるが失敗し、自首する事件が起きる。象山はこの密航をそそのかしたとして連座を問われ、投獄ののち松代藩での蟄居を命じられた。
暗殺と歴史的意義
およそ9年間に及ぶ蟄居生活の間も、象山は西洋文明の研究を怠らず、自らの開国論や公武合体論を深めていった。1864(元治元)年、第14代将軍・徳川家茂の命により蟄居を解かれた象山は、幕府の意向を受けて上洛した。朝廷と幕府の協調(公武合体)と積極的な開国を説いて回ったが、当時の京都は過激な尊王攘夷派の志士たちが暗躍する危険な地であった。西洋の鞍を用いた馬に乗り、洋装を取り入れた象山の姿は攘夷派の標的となり、同年7月、肥後藩の河上彦斎(かわかみげんさい)らによって暗殺された。志半ばで倒れたものの、彼が種を蒔いた開国・近代化の思想は、教え子たちを通じて明治維新という近代国家建設への大きな原動力となったのである。