復古神道
【概説】
江戸時代後期に平田篤胤によって大成された、仏教や儒教などの外来思想を排除し、日本古来の純粋な信仰への回帰を目指す神道思想。本居宣長らの国学(古道説)を継承しつつ、独自の死後世界観を取り入れて宗教的・実践的な体系へと発展させた。幕末の尊王攘夷運動に多大な影響を与え、維新期の神仏分離や国家神道形成の思想的基盤となった。
国学の進展と復古神道の成立
江戸時代中期以降、戸田茂睡や契沖に始まり、賀茂真淵らによって、日本固有の古典や古道を研究する国学が興隆した。国学は本居宣長によって集大成され、儒教や仏教に由来する合理的・作為的な思考様式(「漢意」)を排し、古典に即して日本古代の純朴な精神(「大和魂」)へと立ち返る「古道説」が提唱された。
宣長没後、その門人を自称した平田篤胤(1776〜1843)は、宣長の学問的な古道説をさらに宗教的・実践的な信仰体系へと深化させた。篤胤は、世界の根源は日本の神々によって造られたとする「皇国中心主義」を唱え、外来の宗教を激しく排斥する「復古神道」(平田神道)を確立したのである。
平田篤胤による「幽冥界」の創出と教義の特徴
復古神道の特徴は、古典解釈にとどまらず、庶民の宗教的要求に応える実践的な教義を提示した点にある。特に篤胤が創出した独自の「幽冥界」(あの世)の観念は重要である。宣長は死後の世界(黄泉の国)を単に汚く恐ろしい場所とし、死は悲しむべきものとしたが、篤胤は、人は死ぬと魂が神となって幽冥界に行き、そこで大国主神の支配のもと、現世の遺族や皇国を守護する存在になると説いた。
この現世と冥界が表裏一体であるとする霊魂観は、当時の庶民の死後に対する不安を和らげ、先祖供養の神道化を促した。また、篤胤は西洋から伝わっていたキリスト教の万物創造主の概念(天主)をも日本の神(アメノミナカヌシノカミ)に比定するなど、外来思想の論理をも逆用して自らの神道体系を論理化した。
「草莽の国学」としての普及と幕末へのインパクト
平田篤胤が説いた復古神道は、知的エリートの学問にとどまらず、地方の豪農・豪商、神職、下級武士などの間に爆発的に広まった。彼らは「草莽」と呼ばれ、篤胤の没後もその門人は増え続け、幕末には数千人に達した。この広範な普及の背景には、外圧の危機や幕政の動揺が進むなかで、自らのアイデンティティを日本の伝統や天皇信仰に見出そうとする人々の時代の要請があった。
復古神道の「天皇こそが日本(皇国)の真の支配者である」という政治的思想は、幕末の尊王攘夷運動と容易に結びついた。平田門下の志士たちは討幕運動や各種の政治工作に身を投じ、明治維新を推進する強力な思想的エンジンとなった。維新後、初期の明治政府が推進した神仏分離令や廃仏毀釈、そして国家神道の形成は、この復古神道のイデオロギーが国家規模で実践された結果でもあった。