町田忠治 (まちだちゅうじ)
1863〜1946
【概説】
戦前・戦後期に活躍した日本の政治家、実業家。大蔵大臣や立憲民政党総裁などを歴任し、戦後は日本進歩党の初代総裁となったが、直後にGHQによる公職追放処分を受けた人物。
政党政治の隆盛と戦時体制への合流
町田忠治は秋田県に生まれ、大蔵省勤務や『東洋経済新報』の主筆、実業界での活動を経て政界入りを果たした。憲政会およびその後身である立憲民政党の重鎮として活躍し、農林大臣や大蔵大臣などの要職を歴任した。1934年には民政党の第3代総裁に就任し、軍部の台頭により政党政治が衰退していく困難な時代において、政党の維持に努めた。しかし、1940年の近衛文麿による新体制運動の進展に伴い、民政党を解党。その後は大政翼賛会や翼賛政治会に合流し、戦時下の国策遂行に協力する立場をとった。
戦後の保守政党結成と公職追放
1945年8月の敗戦後、日本の再建に向けて政党活動が再開されると、町田は旧民政党系の政治家を中心に、旧政友会の一部なども取り込んで同年の11月に日本進歩党を結成し、その初代総裁に就任した。進歩党は衆議院で多数を占める大政党として再出発を図ったが、翌1946年1月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が指導者層の戦争責任を追及する公職追放令を発表。町田を含む進歩党所属議員の大半が戦時中の翼賛活動を理由に追放対象となり、町田も総裁辞任と政界引退を余儀なくされた。同年11月、失意のうちに病没した。