細川重賢 (ほそかわしげかた)
【概説】
江戸時代中期の大名で、肥後熊本藩の第8代藩主。深刻な財政破綻に瀕していた藩を「宝暦の改革」によって見事に再興させた、江戸中期を代表する名君。藩校「時習館」の創設による人材育成や、日本初の体系的な近代刑法とされる「刑法草書」の編纂など、先駆的な政策を次々と打ち出した。
財政破綻からの出発と「宝暦の改革」の断行
細川重賢が家督を継承した当時、熊本藩の財政は実質的に破綻状態に陥っていた。度重なる飢饉や幕府からの手伝い普請に加え、藩内の放漫財政がたたり、大坂の両替商からの借財に依存しなければ藩の維持すら困難な状況であった。この危機的状況を打破するため、重賢は宝暦2年(1752年)に「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革を開始する。重賢は改革の推進役として、家柄にとらわれず実務能力に長けた下級藩士の堀平太左衛門を抜擢し、大目付・奉行に据えて全権を委ねた。旧来の因習や門閥層からの激しい反発を押し切り、徹底した経費削減と財政整理に着手したのである。
産業の振興と「時習館」による教育・人材改革
重賢と堀平太左衛門による改革は、単なる支出削減にとどまらず、積極的な経済・産業振興策を伴うものであった。特に注目されたのが、櫨(ハゼ)の栽培とそこから作られる蝋(ロウ)の専売化である。藩が買い上げて大坂へ直接出荷することで多大な利益を上げ、藩財政を潤した。さらに重賢は「国を興すは人にあり」との信念のもと、宝暦5年(1755年)に藩校である時習館(じしゅうかん)を設立した。ここでは武士だけでなく、実力を認められれば庶民の入学も許可し、家格に関わらない実力本位の人材登用ロードを確立した。また、日本初の公立産科・医学校とされる再春館や、薬園である藩樹園も整備し、実学の発展にも大いに貢献した。
先駆的な人道司法「刑法草書」の制定
細川重賢の業績の中で、日本法制史上極めて高く評価されているのが、宝暦4年(1754年)に制定された「刑法草書」である。当時の社会では、犯罪に対して過酷な肉体刑や死刑、さらには連座制が一般的であった。重賢はこの野蛮な厳罰主義を改め、罪人の更生と社会復帰を目的とした人道的な刑罰制度を導入した。具体的には、従来の不具刑(身体を傷つける刑)を廃止し、代わりに一定期間の労働を科す「徒刑(現在の懲役刑に近い)」を日本で初めて法制化した。この先進的な司法改革は、のちに幕府が定めた「公事方御定書」の改訂や他藩の刑法整備にも多大な影響を与え、重賢をして「中興の名君」と呼ばれる最大の要因となった。