大乗非仏説 (だいじょうひぶっせつ)
【概説】
江戸時代中期の町人学者・富永仲基によって提唱された、大乗仏教の経典は釈迦が直接説いたものではないとする学説。歴史的・文献学的な批判手法を用いて仏教経典の成立過程を合理的に解明しようとした、日本の思想史上きわめて先駆的な言説である。
富永仲基と「加上の説」による歴史的批判
江戸時代中期の思想界において、大坂の知的な町人層からは既存の権威にとらわれない自由で合理的な学風が生まれた。その代表格である富永仲基は、思想の歴史的変遷を説明する論理として「加上(かじょう)の説」を提唱した。これは、後発の思想は先発の思想よりも優れたものであると主張するために、先発の思想の基礎の上に、新たな言説を「上に付け加える」形で発展していくという歴史観である。
富永はこの「加上の説」を仏教経典の分析に適用した。彼は、複雑多岐にわたる仏教の経典群を年代順に並べ替え、それぞれの経典がどのような対立関係や歴史的文脈の中で「加上」されていったかを実証的に検証した。その結果、阿含経(あごんきょう)などの初期経典に比べ、高度に体系化された大乗仏教の経典は、後世の思想家や宗派が教理を発展させて創作(加上)したものであると断定し、1745年の著書『出定後語(しゅつじょうごご)』において「大乗非仏説」を論証した。
近世思想史における意義と仏教界への衝撃
当時の江戸幕府は寺檀制度(寺請制度)を敷いており、仏教寺院は幕藩体制を補完する宗教的・行政的権威として安定した地位を得ていた。そのため、当時の仏教界は教条主義に陥り、経典の文言を絶対的なものとして墨守する傾向が強かった。これに対し富永は、文献学という客観的かつ合理的な方法を用いて、教団が聖典としていた大乗経典の絶対性を根底から揺るがしたのである。
富永の批判は、信仰の対象としての経典を、歴史的史料として冷徹に分析するものであった。この態度は、同時代の儒学者や僧侶たちから「異端の説」として激しく排斥されたが、既存の宗教的ドグマ(教条)に囚われない近世日本の合理的思考の到達点を示すものとして、思想史的に極めて高い価値を持っている。
近代仏教学への継承と「大乗非仏説論争」
富永仲基による「大乗非仏説」は、江戸時代においては広く受け入れられることはなかったが、明治時代に入り西洋の近代的な文献批判学・インド哲学が導入されると、再び大きな脚光を浴びることとなった。
明治後期、仏教学者の村上専精(むらかみせんしょう)が『仏教統一論』などを著し、歴史的事実として大乗仏教が釈迦の直説ではないことを学術的に認めた。これにより、近代の仏教界・学界を二分する激しい「大乗非仏説論争」が巻き起こった。近代の知識人たちは、「歴史上の事実(釈迦の直説ではない)」と「信仰上の価値(大乗仏教の宗教的真理)」をいかに調停するかという課題に向き合うことになり、結果として日本の仏教学が世界に冠たる近代的な学問へと発展する契機となった。富永の試みは、まさにこの近代仏教学の先駆をなすものであったといえる。