本陣・脇本陣
【概説】
江戸時代の宿場町において、大名や公家、幕府の役人などが宿泊・休憩するために指定された格式高い宿泊施設。五街道などの宿駅制度や参勤交代と密接に結びついて整備され、地域の有力者が任命されてその役を担った。
宿駅制度の整備と本陣の成立
江戸幕府は全国支配を確固たるものとするため、慶長6年(1601年)より東海道をはじめとする五街道や脇街道の整備を進め、各所に宿場町(宿駅)を設置した。この宿駅制度は、公用の書状や物資をリレー形式で運ぶ伝馬(てんま)制度を中核としていたが、同時に幕府の役人や公家、さらには寛永12年(1635年)の武家諸法度改訂によって制度化された参勤交代を行う大名のための宿泊施設も必要とされた。
こうして、身分の高い公客が宿泊・休憩するための専用施設として指定されたのが本陣である。本陣という呼称は、もともと戦国時代において軍勢の総大将が陣を構える場所を意味していたが、大名行列を軍行と見なす当時の考え方から、大名の宿泊所も本陣と呼ばれるようになった。
本陣の構造と特権、その経営実態
本陣は一般の旅籠(はたご)とは異なり、高い身分を持った客を迎えるための格式と防備を備えていた。周囲には土塁を築き、立派な表門(薬医門など)を構え、式台のある玄関や、身分の高い客が座る一段高くなった上段の間が設けられていた。また、宿帳には大名の家紋が描かれた「関札」が掲げられ、権威を示した。
本陣の当主には、その宿場町において古くから力を持つ有力な百姓や町人、すなわち名主(なぬし)や問屋(といや)役を務める者が任命されるのが通例であった。彼らは幕府から名字帯刀を許され、門や玄関を構えること(門戸構の許可)など、武士に準ずる高い身分的特権を与えられた。しかし、本陣の経営は決して楽なものではなかった。公客からの宿泊代は規定の「休泊料」や「御祝儀(謝礼)」の形で支払われたが、建物の維持費や格式を保つための出費が嵩み、多くの場合、自身の持つ田畑からの収入や、問屋業・酒造業などの家業の利益で赤字を補填して成り立っていた。
脇本陣の役割と柔軟な運用
宿場町には、本陣のほかに脇本陣と呼ばれる施設も置かれていた。これは本陣に次ぐ格式を持つ宿泊施設であり、大藩の参勤交代などで大勢の家臣が随行して本陣だけでは収容しきれない場合や、複数の大名行列が同じ宿場町で鉢合わせしてしまった場合などに、本陣の予備として機能した。
本陣が原則として大名や公家などの特権階級専用であったのに対し、脇本陣は公客の利用がない平時においては、一般の武士や、裕福な商人などの庶民の宿泊を許すことが認められていた。そのため、旅籠屋としての側面も持ち合わせており、経済的実態としては本陣よりも安定した経営を行っている場合も少なくなかった。
幕藩体制の崩壊と本陣の消滅
本陣・脇本陣は、幕府の権威と大名統制の象徴である参勤交代に完全に依存したシステムであった。そのため、幕末期の文久2年(1862年)に行われた文久の改革によって参勤交代が大幅に緩和(3年に1度の出府)されると、利用客は激減し、多くの本陣が深刻な経営難に陥った。
さらに大政奉還を経て明治維新を迎えると、旧来の身分制度や大名行列は消滅した。そして明治3年(1870年)、新政府によって宿駅制度の解体とともに本陣・脇本陣の名目は正式に廃止された。一部の建物はその後も旅館や役場、学校などとして転用されたが、多くの本陣はその広大な敷地と建物を維持できずに取り壊された。現在では、旧東海道の草津宿本陣など各地にわずかに残る本陣跡や遺構が、江戸時代の交通や身分制社会の実態を伝える貴重な歴史的建造物として保存されている。