土佐光起

江戸時代前期の土佐派の画家で、朝廷の御用絵師である絵所預に任じられ、土佐派の復興に貢献した人物は誰か。
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重要度
★★★

土佐光起 (とさみつおき)

1617年〜1691年

【概説】
江戸時代前期に活躍した土佐派の絵師。戦国時代に衰退していた土佐派を再興して朝廷の絵所預に復帰し、宮廷の御用絵師としての地位を確立した。伝統的な大和絵に同時代の狩野派などの技法を巧みに取り入れ、繊細で優美な新たな画風を大成したことで知られる。

土佐派の没落と光起の登場

室町時代の土佐派は、朝廷や室町幕府の御用絵師として大和絵の主流を担い、華やかな絵巻物や肖像画などを手がけて隆盛を極めていた。しかし戦国時代後期、当時の当主であった土佐光元が、パトロンであった越前国の戦国大名・朝倉義景に従軍して討死(1569年)するという悲劇に見舞われる。これにより土佐派は朝廷における絵所預(えどころあずかり)の特権を失い、歴史の表舞台から没落してしまった。

その後、一門の土佐光吉らは動乱の京都を離れ、豊かな経済力を持つ町衆が存在した和泉国堺(現在の大阪府堺市)に逃れた。彼らは町衆の支援を受けながら、細密な画帖などを制作して辛うじて命脈を保っていた。この堺の地で光吉の孫(または子)として生まれたのが、後に土佐派の救世主となる土佐光起である。

宮廷絵所預の奪還と土佐派の再興

寛永11年(1634年)、光起は父・光則とともに堺から京都へ移住し、土佐派の本格的な復権に乗り出した。当時、京都には後水尾天皇を中心とする寛永文化が花開いており、王朝文化への回帰を志向する公家たちの間で、大和絵に対する需要が高まっていた。光起はこの好機を逃さず、公家社会との交流を深めながら自らの画技を磨き、宮廷への接近を図った。

その努力はついに結実し、承応3年(1654年)、光起は長らく空席であった朝廷の絵所預に任ぜられた。これは光元の戦死以来、およそ85年ぶりとなる土佐派の役職復帰であった。光起の絵所預就任によって、土佐派は再び宮廷の公式な御用絵師としての正統な地位を奪還し、歴史的な再興を遂げることとなった。

新たな大和絵画風の確立

光起が活躍した江戸時代前期は、江戸幕府の御用絵師として狩野探幽ら狩野派が画壇の覇権を完全に掌握していた時代であった。光起は、単に古い大和絵の模倣にとどまることなく、この強大な狩野派の描法を積極的に研究した。

彼は、土佐派本来の細密な筆致や豊かな色彩、王朝風の優美な情趣という大和絵の伝統を守りつつも、狩野派が用いた余白を生かす空間構成や、漢画(水墨画)の力強い描線、さらには南宋画の写実性などを柔軟に自らの画風に取り入れた。この和漢を折衷したような洗練された新しい大和絵の様式は、当時の朝廷や公家たちの高い美意識に合致し、絶大な支持を集めた。

代表作と歴史的意義

光起の代表作には、『秋草鶉図(あきくさうずらず)』や『源氏物語絵巻』『大寺縁起絵巻』などがある。特に鶉(うずら)の描写は宋元画の影響を受けた極めて精緻で写実的なものであり、世の人々から「鶉の光起」と称賛されるほど彼の代名詞となった。

また、光起は作画活動にとどまらず、『本朝画法大伝』などの画伝を著述し、大和絵の歴史や土佐派の理論体系を整理することにも尽力した。彼の卓越した政治力と芸術的才能によって再興された土佐派は、息子の光成、光親へと受け継がれ、江戸時代を通じて幕末に至るまで朝廷の絵所預を世襲し続けた。土佐光起の存在は、日本美術史における大和絵の正統な系譜を近代まで接続させたという点で、極めて重要な歴史的意義を持っている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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