欠食児童
【概説】
農業恐慌の深刻化により、弁当を持って学校に来ることができず、昼食を抜かざるを得ない状態に陥った小学生のこと。1930年代前半の昭和恐慌期において、東北地方を中心とする農村部で急増し、深刻な社会問題となった。
昭和農業恐慌と農村の疲弊
1929年に発生した世界恐慌の波及と、金解禁の強行によって1930年(昭和5年)に日本経済を襲った昭和恐慌は、特に農村部に壊滅的な打撃を与えた。アメリカ向けの生糸輸出が激減したことで繭価格が暴落し、さらに同年の大豊作による米価の下落(豊作貧乏)が農家の収入を極端に減少させた。これに追い打ちをかけるように、1931年と1934年には東北地方や北海道を中心とした大規模な冷害凶作が発生し、昭和農業恐慌と呼ばれる極度の農村疲弊を引き起こした。多くの農家が負債を抱え、飢餓の淵に立たされる中、そのしわ寄せは真っ先に社会的弱者である子どもたちへと向けられたのである。
欠食児童の実態と「娘の身売り」
こうした極限の貧困状態の中、昼食時に弁当を持参できず、学校で食事をとることができない小学生が続出した。これがいわゆる欠食児童である。1932年(昭和7年)の文部省の調査によれば、全国の欠食児童数は約20万人に達したと推計されている。昼休みになると、弁当を持たない子どもたちは空腹を紛らわせるために校庭の隅で水道の水を飲んだり、遊んで気を紛らわせたりする痛ましい光景が全国各地の小学校で見られた。
また、欠食児童の増加と並行して、借金のカタや口減らしのために、娘を遊郭や紡績工場に身売りする「娘の身売り」も多発した。これらの惨状は、当時の農村が抱える構造的な矛盾と社会不安を象徴する出来事として新聞や雑誌などのメディアで連日報じられ、大きな社会問題として世間の注目を集めた。
政府の対応と学校給食制度への影響
欠食児童問題が深刻化すると、教師や民間団体、地域社会による炊き出しや無料の給食提供といった同情的な救済活動が自発的に行われるようになった。事態を重く受け止めた政府(文部省)も対策に乗り出し、1932年には「学校給食臨時施設方法」を制定して、国庫補助による欠食児童への学校給食(救済給食)が初めて制度として開始された。
戦前のこの政策は、あくまで貧困家庭の児童のみを対象とした緊急的・恩恵的な救済措置であった。しかし、児童の栄養改善や心身の発達を国家が補助するという理念の萌芽となり、戦後における全児童を対象とした教育的な学校給食制度へと発展していく歴史的契機となった点において、教育史および社会福祉史において極めて重要な意味を持っている。