天満青物市場 (てんまあおものいちば)
【概説】
江戸時代の大坂に置かれた、幕府公認の広大な野菜・果物卸売市場。堂島の米市場、雑魚場(ざこば)の魚市場と並ぶ「大坂三大市場」の一つ。膨大な人口を抱える「天下の台所」大坂の食糧供給体制を支える、流通の要衝として機能した。
天満青物市場の成立と幕府の公認
天満青物市場は、淀川の舟運や周辺農村からの陸上交通の利便性が高い大坂の天満地区に、慶長年間(16世紀末〜17世紀初頭)頃から自然発生的に成立したとされる。大坂の都市規模が拡大するにつれ市場も急速に発展し、1653年(承応2年)に江戸幕府から正式な官許(公認)を得て特権的な市場としての地位を確立した。
この公認により、天満の問屋(青物問屋)は、大坂城下および周辺農村から流入するすべての青物を一手に引き受け、独占的に競り売り(オークション)を行う権利を獲得した。これにより幕府は流通の混乱を防ぎ、都市住民への安定した食糧供給を目指すとともに、市場の商人から運上金や冥加金を取り立てて財政基盤を強化した。
近郊農業の発達と独占流通システム
天満青物市場の繁栄を支えたのは、大坂周辺の摂津国や河内国などで発達した近郊農業であった。淀川の堆積物による肥沃な土壌と、都市から供給される下肥(し尿)を活用し、周辺の農村では商業的農業が高度に発達した。ここで生産された大根、ナス、蕪などの新鮮な野菜は、毎晩のように天満市場へと運ばれた。
市場では、特権を認められた問屋が生産者から荷を預かり、八百屋などの仲買人に卸売りした。この独占的な流通システムにより、天満以外の場所で青物を取引することは厳しく禁止され、周辺農民に対して天満市場への出荷義務が課された。これは大坂における物価の安定を維持するための重要な国策でもあった。
直売運動の台頭と天保の改革による動揺
江戸時代中期以降、天満青物市場の独占体制は脅かされるようになる。周辺の農民たちは、問屋による手数料(口銭)の徴収を嫌い、市場を通さずに直接小売商や消費者へ販売する「直売(じかばい)」を要求して頻繁に争論を起こした。また、公認されていない新興の闇市場(不法市場)が各地に出現し、流通のコントロールが困難になっていった。
さらに、1841年(天保12年)に老中・水野忠邦が断行した天保の改革における「株仲間解散令」は、天満青物市場にも甚大な打撃を与えた。問屋の特権が廃止されたことで、流通秩序は一時的に極めて混乱した。その後、改革の失敗に伴い株仲間は再興されるが、明治維新による旧幕府権力の崩壊とともに特権市場としての役割を終え、のちの近代的な中央卸売市場へと再編されていくこととなる。