稲葉正休 (いなばまさやす)
1640年〜1684年
【概説】
江戸時代前期の譜代大名であり、幕府の若年寄を務めた人物。江戸城内において大老の堀田正俊を刺殺したことで知られ、この事件は幕府の政治体制が側用人政治へと移行する直接の契機となった。
堀田正俊刺殺事件とその背景
稲葉正休は美濃国青野藩主であり、5代将軍徳川綱吉の政権下で若年寄の要職を務めていた。しかし1684年(貞享元年)8月28日、江戸城の御座の間近くにおいて、正休は突如として大老の堀田正俊に斬りかかり、これを刺殺した。正休もその場で居合わせた老中らによって討ち取られた。事件の動機については、淀川の治水事業をめぐる意見の対立があったとする説や、将軍綱吉による教唆説など諸説あるが、真相は現在も未解明のままである。
事件がもたらした側用人政治への移行
この事件は、江戸幕府の政治構造を大きく変貌させる画期となった。有力な補佐役であった堀田正俊を失った将軍綱吉は、臣下による暗殺を防ぐため、将軍の執務スペースである「奥」と、老中らが執務する「表」を物理的に遮断した。そして、両者の意志伝達を仲介する役職として側用人(そばようにん)を重用するようになった。これにより、牧野成貞や柳沢吉保が台頭し、従来の老中合議制に代わる、将軍の専制的な側用人政治が本格化することとなった。