菟玖波集 (つくばしゅう)
【概説】
南北朝時代の1356年に、二条良基と救済が編纂した初の准勅撰連歌集。それまで和歌の余興と見なされていた連歌が、公的な文芸としての地位を確立する決定的な契機となった歴史的・文学的にも重要な史料である。
成立の背景と編纂者
鎌倉時代後期から南北朝時代の動乱期にかけて、上の句と下の句を複数の人間で詠み繋いでいく連歌(れんが)が、身分を超えた交流の場として大きく発展した。この連歌を正式な文芸として引き上げようと尽力したのが、北朝の関白などを歴任した公家(摂関家)の二条良基(にじょうよしもと)である。良基は、地下(じげ)と呼ばれる庶民身分の優れた連歌師であった救済(ぐさい)を重用し、両者の緊密な協力のもとで連歌集の編纂が進められた。
1356年(延文元年/正平11年)に完成したこの連歌集は、北朝の後光厳天皇の命により、勅撰和歌集(天皇の命による公式な和歌集)に準ずる准勅撰という破格の待遇を受けた。これにより、連歌は史上初めて国家的な権威に裏付けられることとなった。
「筑波の道」と連歌の地位向上
「菟玖波(つくば)」という書名は、『古事記』や『日本書紀』に記されている神話の故事に由来している。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途に甲斐国で詠んだ上の句に対し、御火焼の老人(みひたきのおきな)が下の句を続けて詠んだという記述があり、これが連歌の起源とされていた。そのため、古くから連歌の道は「筑波の道」と称されており、この書名には連歌の歴史的正統性を主張する強い意図が込められていた。
それまで連歌は、和歌の宴の後の遊戯的な余興や、僧侶・庶民の間の俗語を交えた遊び(無心連歌など)と見なされがちであった。しかし『菟玖波集』が准勅撰集として認められたことは、連歌が和歌に匹敵する公的で雅な文芸として公認されたことを意味し、文学史上における極めて重要な画期となった。
構成と収録された句の多様性
『菟玖波集』の構成は全20巻からなり、春・夏・秋・冬の四季や、恋、雑、神祇・釈教など、伝統的な勅撰和歌集の部立(ぶだて)を忠実に踏襲している。この形式的模倣も、連歌の権威を高めるための工夫であった。
一方で、収録されている作者の顔ぶれは、勅撰和歌集のそれとは大きく異なっている。皇族や公家だけでなく、佐々木道誉(高氏)をはじめとする足利幕府の有力武将や、僧侶、さらには身分の低い地下の連歌師たちの句が多数採録されている。これは、公家文化と武家文化、そして庶民の文化がダイナミックに融合しつつあった南北朝・室町時代初期の社会状況(いわゆる「ばさら」の風潮など)を如実に反映したものであり、身分を超えた文芸としての連歌の特質をよく示している。
後世の室町文化への影響
『菟玖波集』の成立によって連歌界の指導的立場を確立した二条良基と救済は、のちの1372年(応安5年)に連歌の公式な規則書である『応安新式』(おうあんしんしき)を制定した。これにより、連歌の形式的・美学的なルール(式目)が統一され、文芸としての基盤が確固たるものとなった。
これらの功績により、連歌は室町時代を通じて武家や庶民の間に爆発的に普及し、室町文化を代表する文芸となった。東山文化の時代には宗祇(そうぎ)らによって第2の准勅撰連歌集である『新撰菟玖波集』が編纂され、やがて連歌から派生した俳諧連歌が江戸時代の俳句へと発展していく源流となったのである。