柳沢吉保 (やなぎさわよしやす)
【概説】
江戸時代前期から中期にかけて、第5代将軍徳川綱吉の側近として絶大な権力を振るった譜代大名。幕府の役職である側用人を務め、わずか530石の微禄から川越藩主を経て甲府藩主15万石にまで異例の出世を遂げた人物である。綱吉の文治政治を実務面で支え、独自の政治体制である「側用人政治」を確立させた。
異例の出世と「側用人政治」の確立
柳沢吉保は、徳川綱吉がまだ館林藩主であった時代に、わずか530石の小姓として仕え始めた。1680年(延宝8年)に綱吉が第5代将軍に就任すると、それに伴って幕臣となり、急速に頭角を現していく。綱吉の厚い信任を受けた吉保は、1688年(元禄元年)に新設された側用人(そばようにん)という役職に就任した。
側用人とは、将軍の側近として常に付き従い、将軍と幕政を統括する老中との間の連絡を取り次ぐ役職である。当時の綱吉は、大老の酒井忠清を退けて将軍専制体制の構築を目指しており、譜代名門の老中たちを牽制するために、自身の意のままに動く直属の部下を必要としていた。吉保はこのパイプ役を独占することで、老中をも凌ぐ実質的な最高権力者へと登り詰めていったのである。
元禄の文治政治と学問の振興
綱吉の時代は、武力による支配から、儒学や法律に基づく「文治政治」への転換期であった。吉保自身も極めて学問熱心な教養人であり、この政策路線を強力に推進した。彼は古文辞学派の儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)や、朱子学者の細井広沢などを自らの家臣として召し抱え、手厚く庇護した。
また、吉保は和歌にも深く傾倒しており、和歌の趣味を取り入れた回遊式築山泉水庭園である六義園(りくぎえん)を江戸の下屋敷に造営した。将軍綱吉はこの吉保の屋敷に生涯で58回も「御成(おなり)」を行っており、主従の結びつきの強さと、学問・芸術を介した深い交流がうかがえる。吉保は単なる実務官僚ではなく、元禄文化の良きパトロンとしての側面も持ち合わせていた。
甲府15万石への加増と権勢の頂点
吉保の出世はとどまることを知らず、1694年(元禄7年)に武蔵国川越藩7万2000石の藩主となると、老中格に列せられた。さらに1704年(宝永元年)、将軍家一門や御三家に準ずる格式を持つ要衝、甲斐国甲府藩15万石に転封されるという、一介の幕臣としては破格の待遇を受けた。この際、綱吉から松平の名字と「吉」の偏諱を与えられ、「松平吉保」と名乗ることさえ許されている。
しかし、1709年(宝永6年)に最大の庇護者であった綱吉が没し、第6代将軍に徳川家宣が就任すると、状況は一変する。新井白石や間部詮房ら新たな側近が台頭する中、吉保は幕府内の権力闘争を避けるように自ら隠居を申し出て、家督を長男の吉里に譲った。以後は六義園で読書や和歌に没頭する穏やかな余生を送り、1714年(正徳4年)に57歳でこの世を去った。
歴史的評価の変遷
後世の講談やドラマ、特に「忠臣蔵(赤穂事件)」などの創作物において、柳沢吉保は「暗君・綱吉に取り入った狡猾な奸臣」として描かれることが多かった。賄賂を好んだ、あるいは権力を使って政敵を陥れたといった負のイメージは、長らく民衆の間に定着していた。
しかし近年の歴史学における研究では、吉保は極めて有能で真面目な実務家であったと再評価されている。彼が確立した側用人による政治運営は、譜代大名による合議制を打破し、幕府権力を将軍に一元化するための合理的なシステムであった。のちの田沼意次などに繋がる、側近主導による機動的な幕政運営の先駆けとして、吉保の果たした歴史的役割は非常に大きいと言える。