日本大君 (にほんたいくん)
【概説】
江戸時代、徳川将軍が朝鮮通信使などの対外交渉において用いた公式の外交称号。中国(明・清)を中心とする冊封体制に加わることなく、対等な外交関係を維持するために考案された呼称。新井白石による「日本国王」への一時的な改称を経て、のちに復活し、幕末の開国期には欧米列強に対しても用いられた。
外交称号「大君」の誕生と歴史的背景
江戸幕府の初期、対外的な将軍の称号は「日本国源家康」や「日本国将軍」などが一定せず使われていた。しかし、1636年(寛永13年)の第4回朝鮮通信使の来聘を機に、3代将軍徳川家光のもとで公式な対外称号として「日本国大君」が定められた。これには、中国を頂点とする冊封(さくほう)体制において「国王」という称号が臣下を意味するのを避ける意図があった。また、軍事司令官を指す「将軍」では国家元首としてふさわしくないという判断や、国内の「天皇」との関係を考慮し、日本の独自性と主権を示す呼称として「大君」が選ばれたのである。
新井白石による「日本国王」への変更
18世紀初頭、6代将軍徳川家宣の侍講として「正徳の治」を推進した新井白石は、この「大君」の称号に異議を唱えた。白石は、朝鮮の官制において「大君(テグン)」が王の嫡出の息子(諸子)を指す身分であることに注目し、これでは将軍が朝鮮国王よりも格下に見られてしまい、国家の威信に関わると批判した。また、国内的にも将軍の王権を明確に位置づけるため、1711年(正徳元年)の朝鮮通信使より、将軍の称号を「日本国王」へと変更させた。しかし、この改革は対馬藩の儒学者・雨森芳洲らから激しい反発を受け、外交摩擦を生むこととなった。
「大君」の復活と幕末への継承
新井白石の死後、8代将軍徳川吉宗によって正徳の改革は全面的に見直された。吉宗は、将軍が「国王」を名乗ることは、日本国内における「天皇」の権威を侵す(王位の僭称にあたる)という儒教的な名分論に基づき、1719年の通信使から再び称号を「日本国大君」へと差し戻した。この「大君」の称号は幕末まで維持され、1858年の日米修好通商条約などの締結に際しても、将軍の対外呼称として「Tycoon(タイクーン)」の名で英語表記され、欧米諸国に広く知れ渡ることとなった。