日本国王
【概説】
江戸時代中期の正徳の治において、新井白石の主導により導入された徳川将軍の対外的な公式称号。朝鮮通信使との国書において、従来の「日本国大君」から変更され、将軍の政治的権威を高める目的で用いられた。しかし、新井白石の失脚後、第8代将軍徳川吉宗によって再び「大君」へと差し戻された。
「大君」から「日本国王」への変更とその背景
江戸幕府は、2代将軍徳川秀忠の時代以降、朝鮮国王宛ての国書(書契)における将軍の称号として「日本国大君」(大君)を用いていた。しかし、18世紀初頭に6代将軍徳川家宣を補佐して「正徳の治」を推進した儒学者・新井白石は、この「大君」という称号に強い疑問を呈した。
白石によれば、中国や朝鮮の政治思想において「大君」とは天子の臣下(諸侯)や、王の嗣子(王子)を指す語であり、一国の主権者である徳川将軍の称号としては不適切であった。朝鮮国王(王)に対して将軍が「大君」と名乗ることは、日本が朝鮮より一段低い立場にあると誤解されかねない外交上の瑕疵とみなされたのである。また、国内的にも将軍を「国王」と位置づけることで、朝廷(天皇)との関係性を明確にし、将軍の政治的権威を絶対化する狙いがあった。
室町時代の「日本国王」との本質的な違い
日本史において「日本国王」という外交称号は、かつて室町時代の3代将軍足利義満が明(中国)との日明貿易(勘合貿易)を開始するにあたって、明の皇帝から冊封されて名乗った前例がある。しかし、義満の「日本国王」が中国皇帝を天頂とする冊封体制への臣従を前提としたものであったのに対し、新井白石が企図した「日本国王」は、中国(清)や朝鮮と対等な立場に立つ独立国家の君主という意味合いを強く持っていた。
白石は、徳川将軍が実質的に日本を統治する覇者である以上、国際法(東アジアの華夷秩序)に則って「王」を自称するのが正当であると主張した。これは、伝統的な朝廷・天皇の権威に依存しない、徳川将軍による独自の「王権」を創出・誇示しようとする先駆的な試みでもあった。
対馬藩の懸念と「大君」への復旧
白石のこの改革は、朝鮮との外交実務を世襲的に担っていた対馬藩(宗氏)や、同藩に仕える儒学者・雨森芳洲から強い反対を受けた。芳洲らは、称号の変更が朝鮮側に「日本が尊大になった」との警戒感を与え、長年築き上げてきた平穏な日朝関係(交隣関係)に摩擦を生じさせる懸念があると指摘した。事実、朝鮮側との交渉は難航したものの、最終的に正徳元(1711)年の朝鮮通信使(家宣の将軍就任祝い)からは「日本国王」の称号が用いられた。
しかし、家宣・家継の死後、8代将軍となった徳川吉宗は、白石による一連の正徳の政治改革(正徳の治)を改め、幕政を祖法(家康期の制度)へと回帰させる方針をとった(享保の改革)。これに伴い、将軍の外交称号も享保2(1717)年に再び「日本国大君」へと戻され、白石の求めた「日本国王」の称号はわずか一代限りで終焉を迎えることとなった。その後、幕末の開国期に結ばれた条約調印に至るまで、徳川将軍の公式な外交称号は「大君(Tycoon)」が使用され続けることとなった。