酒井田柿右衛門 (さかいだかきえもん)
【概説】
江戸時代前期の肥前国(佐賀県)有田の陶工。日本で初めて赤・緑・黄などの上絵付を行う「赤絵(色絵)」の技法を完成させた人物。その洗練された意匠は「柿右衛門様式」と呼ばれてヨーロッパの王侯貴族を魅了し、日本の磁器産業を世界的水準に押し上げた。
日本初の赤絵(色絵)磁器の創出
17世紀初頭、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を契機として渡来した李参平ら朝鮮人陶工によって、肥前国(現在の佐賀県)の有田で日本初となる磁器が創始された。当初の有田焼は、白地に青色の顔料で文様を描く「染付(そめつけ)」が主流であった。そうした中、初代酒井田柿右衛門は、長崎に入港した中国人から上絵付の技法を学び、苦心の末に1640年代(寛永〜正保年間)に日本で初めて赤絵(色絵)磁器の焼成に成功したと伝えられている。これにより、有田焼は多彩な色彩表現が可能となり、日本の陶磁器史において画期的な転換点を迎えることとなった。
「柿右衛門様式」の確立と意匠的特徴
柿右衛門とその一族によって生み出された色絵磁器は、1670年代(延宝年間)頃に独自の洗練された様式へと到達し、今日「柿右衛門様式」と呼ばれるスタイルを確立した。その最大の特徴は、「濁手(にごしで)」と呼ばれる温かみのある乳白色の素地にある。この濁手の素地の上に、赤・緑・黄・青(群青)などの鮮やかな色釉を用い、余白を広くとった非対称で絵画的な構図で、花鳥、鶉(うずら)、岩牡丹などが優美に描かれた。明代の中国磁器の模倣から出発しつつも、日本の大和絵に通じる繊細で余情的な美意識が見事に体現されている。
ヨーロッパへの輸出と世界的ブーム
柿右衛門様式が確立された17世紀中葉から後半にかけて、東アジアの国際情勢は大きく変動していた。中国大陸では明から清への王朝交替による内乱(明清交替)が生じ、世界最大の磁器生産地であった景徳鎮窯からの輸出が激減したのである。これに代替する磁器を求めたオランダ東インド会社(VOC)は有田焼に注目し、伊万里港から大量の日本の磁器をヨーロッパへと輸出した(輸出された有田焼は積出港の名から伊万里焼と総称された)。中でも、美しく繊細な絵付けが施された柿右衛門様式の磁器は、ヨーロッパの王侯貴族たちの間で「オールド・ジャパン」として絶大な人気を博し、宮殿の室内を飾る最高級の調度品として珍重された。
マイセン磁器など西洋への多大な影響
柿右衛門様式がヨーロッパの陶磁器文化に与えた影響は計り知れない。18世紀初頭、熱狂的な磁器収集家であったザクセン選帝侯アウグスト強王の命により、ドイツのマイセンでヨーロッパ初の硬質磁器の焼成が成功した。初期のマイセン窯では、王のコレクションであった柿右衛門の磁器が熱心に模倣され、色使いや花鳥の文様をそのまま写した作品が多数制作された。マイセンのみならず、フランスのシャンティイ窯やイギリスのボウ窯、チェルシー窯など、ヨーロッパ各国の名窯がこぞって柿右衛門様式を模倣したことは、日本の工芸美術が世界最高峰の水準に達し、西洋の美術様式に直接的な影響を与えた稀有な歴史的事例として極めて高く評価されている。