中先代の乱

1335年、北条高時の遺児が鎌倉幕府の再興を目指して挙兵し、足利直義を破って鎌倉を一時占領した事件を何というか?
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【参考リンク】
中先代の乱(Wikipedia)

中先代の乱 (なかせんだいのらん)

1335年

【概説】
1335年(建武2年)に、鎌倉幕府の執権であった北条氏の残党(北条時行ら)が、幕府再興を掲げて挙兵し、一時的に鎌倉を占領した反乱。足利尊氏が建武政権から離反する直接的な契機となり、その後の南北朝の動乱を引き起こす重要な転換点となった。

建武政権への不満と「中先代」の挙兵

1333年の鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が開始されたが、恩賞の不公平や性急な法令の変更、度重なる内裏造営の負担などは、武士層に強い不満を抱かせる結果となった。特に武家社会の中心であった東国では、足利直義(尊氏の弟)が成良親王を奉じて鎌倉将軍府を形成していたが、旧幕府勢力の反発が水面下でくすぶり続けていた。

このような情勢のなか、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男である北条時行は、信濃国の諏訪頼重らに匿われていた。1335年(建武2年)7月、時行と諏訪氏は建武政権に対する武士の不満を吸収する形で信濃国において挙兵した。なお、「中先代」とは、先代(北条氏)と後代あるいは当代(足利氏)の間に位置し、一時的に鎌倉を支配した者という意味で後世に名付けられた呼称である。

鎌倉の一時的陥落と護良親王の暗殺

反乱軍は信濃から上野国、武蔵国へと進軍し、建武政権に不満を持つ東国武士を次々と味方に引き入れて膨れ上がった。鎌倉を守備していた足利直義は迎撃に出たものの、武蔵国の女影原や小手指原の戦いで敗退し、三河国へと逃亡を余儀なくされた。

この鎌倉落ちの際、直義は鎌倉の土牢に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子・護良親王を密かに暗殺している。これは、反幕府の象徴的権威であった護良親王が北条時行軍に奪われ、彼らの反乱の正当化に利用されることを恐れたためであった。直義を退けた北条時行は鎌倉に入り、わずか20日余りではあるが旧幕府勢力による東国支配を復活させたのである。

足利尊氏の無断東下と乱の鎮圧

鎌倉陥落の報を受けた京都の足利尊氏は、後醍醐天皇に対し、時行討伐のための征夷大将軍の任命と、東国武士を統率する惣追捕使の権限を要請した。しかし、尊氏の勢力拡大を警戒する後醍醐天皇はこれを拒否した。すると尊氏は、勅許を待たず独自の判断で軍を率いて東下を開始した。

尊氏は進軍しながら建武政権に不満を持つ武士たちを巧みに糾合し、大軍へと成長していった。三河国で直義の軍勢と合流した尊氏は、遠江国、駿河国、箱根などで時行軍を連破し、8月には鎌倉を奪還した。諏訪頼重らは自害し、北条時行は逃亡したことで、中先代の乱は短期間で鎮圧された。

南北朝動乱への発火点としての歴史的意義

中先代の乱の真の歴史的意義は、反乱そのものの規模よりも、足利尊氏が建武政権から離反する決定的な契機となった点にある。乱を平定した尊氏は、後醍醐天皇からの再三の帰京命令を無視してそのまま鎌倉に留まり、独自に恩賞を配分して武士の支持を集めた。

この尊氏の行動は、建武政権の権威を根本から否定する事実上の叛逆であった。後醍醐天皇は尊氏の討伐を決意し、新田義貞を総大将とする追討軍を関東へ派遣することとなる。こうして、中先代の乱をきっかけに建武の新政は事実上崩壊し、日本はその後およそ60年にわたって続く南北朝時代という未曾有の内乱期へと突入していったのである。

吾妻鏡 第4

鎌倉幕府の重要局面を公的な視点で克明に記録し、武家政権の成り立ちと変遷を読み解くための不可欠な基本史料。

中先代の乱-北条時行、鎌倉幕府再興の夢 (中公新書 2653)

悲劇の皇子・北条時行が幕府再興を目指して激動の南北朝を駆け抜けた、知られざる足跡を辿る歴史ドキュメントの傑作。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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