赤絵

白磁の釉薬の上に赤・緑・黄・青などの絵の具で文様を描き、再度焼き付ける上絵付の技法(色絵)を特に何というか。
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★★★

赤絵

17世紀中頃〜

【概説】
白地の陶磁器の上に、赤・緑・黄・青・紫などのガラス質の絵の具で文様を描き、焼き付ける上絵付け技法。日本においては江戸時代初期に肥前国・有田の酒井田柿右衛門らによって創始され、伊万里焼や京焼、九谷焼などの発展と、近世工芸文化の成熟に多大な影響を与えた。

赤絵(色絵)の技法と中国からの伝来

赤絵(あかえ)とは、一般に色絵(いろえ)とも呼ばれる陶磁器の装飾技法である。高温で焼き上げた白磁や釉薬をかけた陶器の表面に、赤・緑・黄などのガラス質の色絵の具で文様を描き、再度「錦窯(にしきがま)」と呼ばれる低温(約800度前後)の窯で焼き付ける。この技法は宋代の中国で始まり、明代の景徳鎮窯(けいとくちんよう)において飛躍的な発展を遂げた。「赤絵」という名称は、主に赤色を基調とした鮮やかな彩色が施されたことに由来している。

日本では中世から中国産の陶磁器(唐物)が珍重されてきたが、国内では長らく釉薬を用いた本格的な彩色技法は確立されていなかった。しかし、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を契機に朝鮮半島の陶工が多数来日し、九州各地で窯を開いたことで、日本の陶磁器生産は劇的な技術革新を迎えることとなる。17世紀初頭には肥前国(現在の佐賀県)の有田で日本初の磁器が焼造され、これが後の赤絵誕生の土壌となった。

日本における赤絵の創始と酒井田柿右衛門

1640年代(寛永〜正保年間)、有田の陶工であった初代酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)らが、中国・明の技法を研究し、日本で初めて赤絵(色絵)磁器の焼成に成功したと伝えられている。初期の赤絵は、中国の「古赤絵」や「南京赤絵」を模倣したものであったが、やがて柿右衛門は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地に、赤を主調として余白を生かした繊細な花鳥図などを描く独自の様式(柿右衛門様式)を確立した。

柿右衛門の成功により、有田一帯の窯業は飛躍的な発展を遂げた。鮮やかな色彩を持つ有田の赤絵磁器は、伊万里の港から全国へと出荷されたため、総称して伊万里焼(いまりやき)と呼ばれ、大名や豪商の間で高級品としてもてはやされた。

ヨーロッパへの輸出と世界的な影響

17世紀中頃、明から清への王朝交代に伴う動乱によって、中国最大の窯業地である景徳鎮は壊滅的な打撃を受け、ヨーロッパへの磁器輸出が一時途絶した。この事態を受け、アジアの海上貿易を独占していたオランダ東インド会社(VOC)は、中国産磁器の代替品として日本の伊万里焼(有田焼)に目を向けた。

1650年代以降、日本の赤絵磁器はオランダ船によって大量にヨーロッパへと輸出された。王侯貴族たちは、絢爛豪華な金襴手(きんらんで)や柿右衛門様式の伊万里焼を宮殿の装飾として熱狂的に愛好した。この流行はヨーロッパの陶磁器産業にも多大な影響を与え、ドイツのマイセン磁器やフランスのシャンティイ窯などで、日本の赤絵を模倣した製品が盛んに作られるようになった。日本の赤絵は、単なる国内向けの工芸品にとどまらず、近世のグローバルな文化交流を象徴する重要な交易品であったのである。

京焼・九谷焼への波及と町人文化の成熟

赤絵の技法は九州から全国へと波及し、各地の窯業に大きな変革をもたらした。17世紀後半の京都では、野々村仁清(ののむらにんせい)が和風の洗練された意匠を取り入れた色絵陶器を完成させ、京焼の基礎を築いた。仁清の系譜は、後に元禄文化の代表的文化人である尾形乾山(おがたけんざん)へと受け継がれ、茶道や公家文化と結びついて芸術性を高めていった。

また、加賀藩(現在の石川県)では、17世紀中頃に古九谷(こくたに)と呼ばれる大胆な構図と濃厚な色彩(青・黄・緑・紫・赤の五彩)を特徴とする色絵磁器が焼かれた。このように、江戸時代を通じて赤絵(色絵)の技法は各地域で独自に発展し、経済成長に伴って台頭した豊かな町人たちの生活を彩るなど、日本近世の工芸・美術史において不可欠な役割を果たしたのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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