李敬 (りけい)
【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した朝鮮出身の陶工。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、毛利輝元によって日本へ連行され、長州藩の御用窯として「萩焼」の祖となった人物。
「やきもの戦争」と高麗陶工の渡来
豊臣秀吉による1592年からの文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、軍事的には豊臣政権の崩壊を早める結果となったが、日本の文化史においては極めて大きな転換点となった。当時、日本の戦国大名たちの間では千利休らを中心とする「茶の湯」が流行しており、朝鮮産の素朴で味わい深い高麗茶碗は極めて高く評価されていた。そのため、出兵した西国大名たちは競うように朝鮮の優れた陶工を日本へと連れ帰った。このことから、朝鮮出兵は別名「やきもの戦争」とも呼ばれる。
李敬(りけい)は、こうした歴史的動乱の中で、兄の李勺光(りしゃっこう)とともに毛利輝元に召し抱えられ、日本へと渡来した。彼らは毛利氏の領国であった広島(のちに周防・長門)へと移住し、作陶活動を開始することとなる。
萩焼の創始と「坂高麗左衛門」の襲名
関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は防長二国(周防国・長門国)に減封され、本拠地を萩へと移した。これに伴い、李勺光と李敬の兄弟も萩の松本(現在の山口県萩市)に移り、1604年に毛利輝元の許しを得て御用窯(松本焼)を開いた。これが現在まで続く萩焼の始まりである。
兄である李勺光が没したのち、李敬は窯を実質的に主導し、その高い技術と忠誠心が認められて毛利輝元より「坂高麗左衛門(さかこうらいざえもん)」の名を与えられた。さらに、武士に準ずる格式(士分)を授けられ、長州藩の御用窯としての地位を確立した。李敬の系統は代々「坂高麗左衛門」の名跡を襲名し、萩焼の伝統を今日まで受け継ぐ名門として存続している。
日本茶道史における意義と技術的影響
李敬らが伝えた技術は、当時の日本における陶磁器生産を劇的に変化させた。彼らがもたらした登り窯や蹴りろくろなどの高度な技術は、大量かつ質の高い作陶を可能にし、それまでの素焼きや釉薬を用いない粗野な和物陶器とは一線を画す、繊細で味わい深い作品を生み出した。
特に萩焼は、浸透性のある粘土を用いることで、長年使い込むうちに茶が染み込んで色合いが変化する「萩の七化け(はぎのななばけ)」と呼ばれる独特の風合いを持ち、「一楽、二萩、三唐津」と称されて茶人たちから熱狂的に愛された。李敬ら高麗陶工の渡来は、日本の陶磁器文化を飛躍的に発展させ、江戸時代の豊かな大名茶や庶民の器文化の基盤を築く極めて重要な契機となったのである。