水野忠之 (みずのただゆき)
【概説】
江戸時代中期の譜代大名であり、幕府の財政再建を主導した老中。第8代将軍・徳川吉宗が主導した「享保の改革」において初代の勝手掛老中に就任。新田開発の推進や定免法の導入、上米の制などの実務を指揮し、破綻寸前だった幕府財政を立て直す最大の功労者となった。
勝手掛老中への就任と吉宗の信任
三河国岡崎藩主であった水野忠之は、奏者番や京都所司代などの要職を経て、1717年に老中に就任した。当時、将軍となったばかりの徳川吉宗は、幕藩体制の動揺を防ぐため「享保の改革」を開始していた。吉宗は深刻な幕府の財政赤字を解消するため、それまで老中の合議制で行われていた財政運営を一本化し、1723年に財政専任の最高責任者である「勝手掛老中(かってがかりろうじゅう)」を新設した。忠之はその初代に抜擢され、吉宗の強い信任のもとで財政再建の実務を一身に担うこととなった。
「米公方」を支えた新田開発と税制改革
忠之が推進した政策は、緊縮財政にとどまらず、積極的な増収策を軸とするものであった。まず、大名に対して石高1万石につき100石の米を幕府に上納させる代わりに、参勤交代の江戸在府期間を半減する「上米(あげまい)の制」を導入し、幕府の米蔵を潤した。さらに、商人の資金力を利用した「町人請負新田」による大規模な新田開発を奨励し、年貢の徴収基盤を大幅に拡大させた。また、それまでの豊凶に応じて年貢率を決める検見法(けみほう)から、過去の収穫量の平均値をもとに年貢率を一定期間固定する「定免法(じょうめんほう)」への転換を進め、幕府の年貢収入の安定化を達成した。
実務官僚の登用と歴史的意義
これらの抜本的な改革を推進するため、忠之は門閥や家格にこだわらず、優秀な実務能力を持つ中下級の官僚を積極的に登用した。忠之に見出された勘定所の官僚たちは、のちに「米将軍(米公方)」と呼ばれた吉宗の増徴政策(のちの勘定奉行・神尾春央らの「撫民(ぶみん)よりも毟民(せつみん)」の方針など)を技術的に支える集団へと成長していく。忠之が指揮した改革は、幕府財政を一時的に立ち直らせることに成功した。しかし、その一方で百姓への年貢負担を過酷なまでに高める結果となり、のちに各地で百姓一揆や打ちこわしが多発する社会不安を招く契機ともなった。