牢人(浪人) (ろうにん)
【概説】
江戸時代において、主君の改易などで主家を失い、家禄を離れて生活することになった武士。特に江戸幕府初期の武断政治下で大量に発生し、深刻な社会不安の要因となった。この問題は、後に幕府が文治政治へと政策を大きく転換させる契機ともなった。
古代・中世の「浪人」から近世の「牢人」へ
もともと古代の律令制下において、戸籍に登録された本貫地を離れて浮浪する農民などを「浮浪人」と呼んだことに由来し、中世においては主君を持たずに各地を流浪する武士を「浪人」と称した。戦国時代までは下剋上の気風もあり、武士が自らの意思で主君を見限って出奔し、より好待遇で迎えてくれる別の主君へと仕官する「渡り奉公」も珍しいことではなかった。
しかし、豊臣政権から江戸幕府へと移行し、兵農分離や身分統制が厳格化していくと状況は一変する。主君を失った武士は新たな仕官先を見つけることが極めて困難となり、特定の主家に属さず町や村に留め置かれる(牢籠される)という意味合いから、近世においては「牢人」と表記されることが一般的となった。
武断政治による大量発生と社会不安
江戸幕府成立後、初代徳川家康から3代家光の時代にかけては、幕府の権力基盤を盤石にするための武断政治が徹底された。関ヶ原の戦いや大坂の陣に伴う豊臣系大名の取り潰しに加え、幕府は諸大名に対して『武家諸法度』による厳格な統制を敷いた。居城の無断修築や後継者問題(末期養子の禁)などの違反があれば、大名家は容赦なく改易(領地没収)や減封を命じられた。
福島正則や本多正純、加藤忠広といった有力大名が次々と改易された結果、彼らに仕えていた家臣たちは一挙に禄を失い、牢人の数は全国で約40万から50万人に達したと推測されている。彼らの多くは再仕官の望みも薄く、困窮した生活を強いられたことで、幕府や社会に対する不満を鬱積させていった。1637年(寛永14年)に勃発した島原の乱では、旧有馬氏や小西氏の家臣であった多くの牢人が反乱軍の主力として参加し、幕府軍を大いに苦しめることとなった。
慶安の変と文治政治への転換
大量の牢人が抱える不満は、やがて幕府体制そのものを揺るがす重大な事件を引き起こす。1651年(慶安4年)、3代将軍家光の死の直後に、兵学者・由井正雪を首謀者とする大規模な幕府転覆計画が発覚した(慶安の変)。事件自体は未然に防がれたものの、数千人規模の牢人が計画に加担しようとしていた事実は、幕閣に深刻な衝撃を与えた。
この事件を重く見た4代将軍家綱を補佐する松平信綱らの幕閣は、従来の力による押さえつけ(武断政治)の限界を悟り、儒学や法令に基づく秩序維持を重んじる文治政治へと大きく政策を転換した。牢人発生の最大の原因であった「末期養子の禁」を大幅に緩和(50歳未満の当主の末期養子を許可)するなど、大名家の取り潰しを未然に防ぎ、社会を安定化させるための根本的な対策が講じられたのである。
泰平の世における変容と幕末の「浪士」
文治政治への転換以降、大規模な改易が減少したことで牢人の急増は収まった。しかし、泰平の世が定着すると各藩の家臣団は固定化し、武士の新規召し抱えは極端に少なくなったため、牢人の再就職はほぼ不可能となった。そのため、彼らは武士の身分を捨てて町人や農民となったり、学問や武術の素養を活かして学者、医者、寺子屋の師匠、あるいは町道場の主として生計を立てるようになった。近松門左衛門や松尾芭蕉なども、広い意味での牢人出身である。
時代が下り幕末に至ると、意味合いは再び変化する。黒船来航以降の国難に対し、藩の統制に縛られずに自由な政治活動を行うため、自らの政治的信念に基づいて自発的に脱藩する志士たちが多数現れたのである。彼らは自らを「浪人」あるいは「浪士」と称し、尊王攘夷運動や討幕運動に身を投じた。坂本龍馬や高杉晋作など、幕末の歴史を動かした中心人物の多くがこの脱藩浪人であった。この頃から、表記も再び「浪人」が一般化し、現代における用法へと繋がっている。