伸葬 (縄文時代後期〜弥生時代以降)
【概説】
死者の手足を真っ直ぐに伸ばした状態で埋葬する墓制。縄文時代に主流であった屈葬に代わり、弥生時代以降の農耕社会の発展とともに全国的な主流となった葬法である。
屈葬から伸葬への移行と死生観の変化
日本の先史時代における埋葬方法は、縄文時代の屈葬(くっそう)から弥生時代の伸葬へと大きく変化した。縄文時代に一般的だった屈葬は、死者の手足を強く折り曲げて麻縄などで縛り固定して埋葬する方法である。これには、死霊が動き出して生者に災いを及ぼすのを防ぐ(死霊恐れ)という呪術的な意図や、あるいは母胎内の胎児の姿勢を模すことで「再生」を祈ったとする説、単に墓穴を掘る労力を節約するためという現実的な説などがある。
これに対して、縄文時代後期から晩期にかけて現れ、弥生時代に定着した伸葬は、死者を仰向けに寝かせ、手足を真っ直ぐに伸ばす「仰臥伸葬(ぎょうがしんそう)」が基本である。この移行は、死者を恐ろしい存在として縛り付ける思想から、死者を優しく葬り、やがては共同体を守護する祖霊(それい)として祀り上げるという、死生観のドラスティックな変化を示している。
農耕社会の成立と社会構造の変化
伸葬の普及は、弥生時代における本格的な水田稲作農耕の開始と密接に結びついている。定住的な農耕社会においては、土地を切り開き、共同作業を行うための「持続的な血縁共同体」の維持が不可欠となった。生前の社会的な位置づけが死後も維持され、死者は一族の先祖(祖霊)として共同体の墓地に丁重に葬られるようになった。伸葬に必要な大型の木棺や石棺、そして大きな墓穴を掘るためには、金属器(鉄製工具など)の普及だけでなく、集団による組織的な労働力の動員が必要であり、これを可能にするだけの社会的な階層化や共同体秩序が確立したことを物語っている。
多様な墓制の展開と伸葬の定着
弥生時代に入ると、伸葬を基本とする多様な墓制が地域ごとに展開した。西日本を中心に普及した木棺墓(もっかんぼ)や箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)、朝鮮半島の影響を受けた支石墓(しせきぼ)、そして東日本でも広まった再葬墓(さいそうぼ)ののちの埋葬様式など、その多くが伸葬を前提とした構造を持っている。さらに、弥生時代中期以降に台頭する首長(リーダー)の墓である方形周溝墓や墳丘墓、そして古墳時代の古墳へとつながる巨大な墳墓は、すべて被葬者を丁重に伸葬するための巨大な棺を内包していた。このように、伸葬の確立は、のちの古墳時代における身分秩序や国家形成の基礎を示す象徴的な現象であったと言える。