不受不施派 (ふじゅふせは)
【概説】
日蓮宗の宗祖・日蓮の教義を厳格に守り、法華経の信者でない者からは布施を受けず(不受)、信者でない者には施しをしない(不施)という強硬な宗教的立場を貫いた一派。江戸幕府によってキリスト教(キリシタン)と同様に禁教とされながらも、徹底的な弾圧に抗して地下組織を形成し、信仰を維持し続けた。
豊臣政権との対立と「不受不施」の起源
日蓮宗(法華宗)は元来、他宗を邪法として排し、法華経のみを正法とする「折伏(しゃくぶく)」の精神を重視する。安土桃山時代の1595年(文禄4年)、天下人となった豊臣秀吉が京都の方広寺大仏殿で「千僧供養会(せんぞうくようえ)」を執り行うにあたり、日蓮宗を含む主要宗派の僧侶に出仕を命じた。これに対し、妙覚寺の日奥(にちおう)は、「法華経を信じない者(秀吉)からの供養(布施)を受け、また他宗の僧とともに祈ることは教義に反する」として出仕を拒絶。これが「不受不施」という厳格な信条の始まりであり、秀吉の不興を買った日奥は対馬へと流罪に処された。
徳川幕府による弾圧と「悲田・不受不施」の論争
江戸幕府が成立すると、幕府は寺社法度を制定して仏教諸宗派を自らの支配下に組み込もうとした。この過程で、幕府の権力に妥協して課役や供養を受け入れる「受不施派(じゅふせは)」と、一貫してこれを拒絶する「不受不施派」との間で激しい対立が生じる。特に1630年(寛永7年)に幕府の裁定によって行われた「寛永の対論」において、不受不施派は敗北とされ、幕府の宗教統制に逆らう邪法であるとみなされた。さらに1669年(寛文9年)には、幕府によって完全に禁教とされ、信者や僧侶への徹底的な取り締まりが開始された。
地下組織「内証」と明治の再興
幕府からキリスト教(キリシタン)と同等の厳しい弾圧を受けた不受不施派の信者たちは、表向きは他宗の寺院に所属(寺請)して宗門改をかいくぐりながら、水面下で強固な秘密組織(内証、あるいは地下組織)を形成した。彼らは「導師」と呼ばれる在家の指導者を中心とし、備前国(岡山県)や美作国(岡山県)などの特定地域に潜伏して信仰のネットワークを維持し続けた。この潜伏生活は幕末まで200年以上続き、明治時代に入って信教の自由が部分的に認められる契機となった1876年(明治9年)、ようやく明治政府から公認を得て「不受不施派」および「不受不施日蓮講門宗」として再興を果たすこととなった。