博徒 (ばくと)
【概説】
江戸時代中期以降、街道の宿場町や農村部において賭博を常習とした無頼漢や無法者の集団。飢饉や重税により没落して戸籍から外れた「無宿人」が組織化したもので、のちの暴力団(ヤクザ)の源流の一つ。治安維持を図る幕府の厳しい取締対象となった一方で、独自の擬制的親子関係に基づく強固な組織を形成した。
農村の荒廃と無宿人の博徒化
江戸時代中期以降、特に18世紀後半の天明の飢饉や19世紀前半の天保の飢饉などを契機として、日本の農村社会は激しく動揺した。重税や凶作によって生活基盤を失った農民のなかには、故郷を捨てて宗門改帳(戸籍)から名を除かれる無宿(むしゅく)と呼ばれる漂流民となる者が急増した。彼らは都市や街道筋へ流入し、その一部が非合法な賭博(ばくち)を組織・運営して生計を立てる「博徒」となっていった。博徒は地元の有力者や興行主と結びつき、独自の縄張り(テリトリー)を形成して勢力を拡大していった。
幕末の治安悪化と関東取締出役の設置
博徒の跳梁は、特に幕領(天領)や旗本領、諸藩領が複雑に入り組んでいた関東地方(八州)において顕著であった。各領主の警察権が及ばない「境目の地」を温床として博徒が横行したため、江戸幕府は1805年、広域的な治安維持組織として関東取締出役(八州廻り)を設置した。しかし、博徒側も強力な首領(親分)のもとで「親分子分」という擬制的親子関係に基づく強固な結合を誇り、武装化を進めて幕府権力に対抗した。国定忠治や清水次郎長に代表される「侠客(きょうかく)」の伝説は、こうした幕府の支配力が弱まった幕末期の混沌とした社会情勢の中で生まれることとなった。
近代移行期における変容と「ヤクザ」への系譜
明治維新期において、博徒は新政府軍と旧幕府側の双方から軍事力や補給路確保の担い手として利用される局面もあった。しかし、近代国家の樹立を目指す明治政府は、国家による暴力の独占と社会秩序の安定を図るため、1884年(明治17年)に「賭博犯処分規則」を制定するなど、博徒の徹底的な弾圧(大検挙)を進めた。これによって伝統的な博徒組織は解体へと向かうが、その一部は興行界、炭鉱や港湾の労働供給、土建業などの利権と結びつき、大正・昭和期におけるヤクザ(暴力団)組織へと再編・継承されていくことになった。