バタヴィア
【概説】
現在のインドネシアの首都ジャカルタの旧称。17世紀初頭にオランダ東インド会社がアジア貿易および植民地支配の総本部を置いた拠点都市。
オランダ東インド会社のアジア支配拠点
バタヴィアは、1619年にオランダ東インド会社(VOC)の第4代総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが、ジャワ島西部の港市ジャカルタを武力占領し、オランダの先住民族バタウィ族にちなんで改称したことに始まる。オランダはここに強固な城塞(バタヴィア城)を築き、周囲に運河を巡らせて本国風の城郭都市を建設した。バタヴィアは、モルッカ諸島産の香辛料貿易を支配するだけでなく、中国の生糸や陶磁器、日本の銀や銅などを結ぶ中継貿易(アジア間貿易)のハブとして機能し、オランダのアジア権益における絶対的な中心地となった。
江戸時代の日本(長崎)との緊密な結びつき
江戸幕府が推進した「鎖国」体制下において、長崎の出島に来航したオランダ船は、基本的にはこのバタヴィアから派遣されていた。バタヴィア総督は、毎年出島に派遣される商館長(カピタン)を通じて江戸幕府への忠誠を誓い、貿易の継続を認められた。また、幕府が海外情勢を把握するための唯一無二の情報源であったオランダ風説書や、19世紀半ば以降にアヘン戦争などの最新の世界情勢を伝えた別段風説書は、バタヴィア政庁で収集された情報を基に作成され、日本へもたらされた。このように、バタヴィアは江戸期の日本にとって、西洋世界やアジア情勢を知るための最重要の情報発信地であった。
「ジャガタラお春」と追放された人々
江戸幕府がキリスト教の排除と貿易統制を強める過程で、バタヴィアは日本を追われた人々の行き先ともなった。1639年(寛永16年)のいわゆる「第5次鎖国令」により、ポルトガル人やイギリス人などとの間に生まれた混血児とその母親ら数十人が、長崎からバタヴィアへと追放された。その中の一人であるイタリア人航海士と日本人女性の間に生まれたジャガタラお春(現地でオランダ東インド会社の下級役人と結婚)が、日本の知人に宛てて切々たる郷愁を綴ったとされる「ジャガタラ文」は、日本の対外閉鎖期における人々の哀史を象徴する史料として知られている。彼女ら追放された人々は、現地で「ジャガタラ(ジャカルタの訛り)市民」として生活基盤を築き、現地の社会に溶け込んでいった。