末次平蔵 (すえつぐへいぞう)
【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した長崎の豪商、およびその名跡。朱印船貿易によって巨万の富を築き、長崎代官として市政を掌握した代表的な特権商人である。
長崎代官への就任と村山等安との抗争
初代末次平蔵(政直)はもともと博多の商人であったが、長崎へ移住して頭角を現した。当時、長崎の政務を牛耳っていたのは長崎代官の村山等安であったが、平蔵は等安と激しく対立するようになる。1618年、平蔵は等安がキリシタンを庇護していることや、大坂の陣において豊臣方に武器を送った疑いがあることなどを幕府に告発した。翌1619年、幕府の裁決により村山等安は死罪となり、代わって末次平蔵が長崎代官に任命された。これにより末次家は長崎の行政と経済の実権を掌握し、世襲代官としての地位を確立した。
朱印船貿易の隆盛とタイオワン事件
末次平蔵は幕府から朱印状を得て、台湾やルソン(マニラ)、交趾(ベトナム)などへの朱印船貿易を精力的に展開し、巨万の富を築いた。その影響力は、アジア海域に進出してきたオランダ東インド会社をも脅かすものであった。1628年、台湾(ゼーランディア城)において、末次家の朱印船の船長である浜田弥兵衛が、貿易トラブルからオランダ台湾長官ノイツを拘束するタイオワン事件(ノイツ事件)を起こした。この背景には、オランダによる貿易独占を排除しようとする末次平蔵の強力な後押しがあった。事件は一時、日蘭貿易の中断を招く外交問題に発展したが、結果として幕府の権威を背景にオランダ側に譲歩を迫ることに成功した。
末次家の世襲と密貿易による没落
1630年に初代平蔵が没した後は、子の茂貞が2代目を継ぎ、長崎代官および朱印船貿易商としての地位を維持した。鎖国体制の完成にともない朱印船貿易は途絶えたものの、長崎代官として市街の支配や唐船・オランダ船の管理を行い、末次家は繁栄を続けた。しかし1676年、4代目の末次茂朝の時代に、中国(清)との組織的な密貿易が発覚する。この末次事件により茂朝は流罪となり、末次家は改易・家名断絶となった。末次家の没落は、幕府が長崎における直轄支配と密貿易管理をいっそう強化する契機となった。