鎖国
【概説】
江戸幕府が日本人の海外渡航を全面禁止し、外国との貿易や交渉を長崎などに厳しく制限した対外政策。キリスト教の禁制と幕府による貿易利益の独占を主目的として段階的に形成された。1854年の日米和親条約による開国まで200年以上にわたり、日本の外交と社会の在り方を決定づけた重要な基本方針である。
「鎖国」という概念の成立と史学史的評価
一般に江戸時代の排他的な対外政策を指す「鎖国」という言葉であるが、実は幕府自身がこの言葉を用いて自らの政策を呼称したことはない。この用語は、1690年に来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの著書『日本誌』の一部を、江戸時代後期の1801年に蘭学者の志筑忠雄が和訳した際、『鎖国論』と題したことによって誕生した造語である。
近年の歴史学においては、日本が完全に国を閉ざして孤立していたわけではないという観点から、「鎖国」という言葉の定義を見直す動きが主流となっている。実際には、東アジアの伝統的な国際秩序である「華夷秩序」や、中国の明・清が行った私貿易統制である「海禁」政策の日本版を展開していたに過ぎず、国を閉ざすのではなく「幕府が対外関係を独占し、統制した状態」として再評価されている。
鎖国体制の確立過程(寛永の鎖国令)
江戸幕府の初代将軍・徳川家康は、朱印船貿易を奨励し、西欧諸国にも広く門戸を開く積極的な外交政策をとっていた。しかし、キリスト教(とくにカトリック)の布教が神国思想や幕藩体制の根幹を脅かすことへの危惧や、西国大名が貿易によって幕府を凌ぐ富と軍事力を持つことへの警戒感から、第2代将軍・徳川秀忠から第3代将軍・徳川家光の時代にかけて、段階的に統制が強化されていった。
1616年にはヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限(二港制限令)し、1633年の「第1次鎖国令」では奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止した。さらに1635年の「第3次鎖国令」によって日本人の海外渡航および帰国が全面禁止され、朱印船貿易は実質的に終焉を迎えた。1637年に勃発した島原の乱が決定打となり、幕府はキリスト教への警戒を最大限に高めることとなる。その結果、1639年にポルトガル船の来航を禁止する「第5次鎖国令」が発布され、1641年に平戸のオランダ商館を長崎の出島に移転させたことで、一般に「鎖国体制」と呼ばれる枠組みが完成した。
「四つの口」と限られた国際交流
鎖国下にあっても、日本は以下の「四つの口」と呼ばれる窓口を通じて、諸外国と公式あるいは準公式な関係を維持していた。
第一の口が長崎口であり、長崎奉行の厳格な管理の下、オランダおよび中国(清)との通商が行われた。とくにオランダ商館長が提出する「オランダ風説書」は、幕府にとって西洋の国際情勢を知る極めて重要な情報源であった。
第二の口は対馬の宗氏を介した対馬口であり、朝鮮王朝との間で外交・貿易が行われ、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が来日して友好的な善隣外交が展開された。
第三の口は薩摩の島津氏を通じた薩摩口である。島津氏は琉球王国を実質的に支配し、琉球を通じて清との間接貿易を行いつつ、江戸幕府への慶賀使・謝恩使を派遣させた。
第四の口は松前の松前氏が担った松前口であり、蝦夷地(現在の北海道)のアイヌとの間で特権的な交易が行われていた。
このように幕府は、自らを「中華」に見立てた独自の東アジア国際秩序を構築し、これら四つのルートを独占して管理することで、国内の諸大名に対する圧倒的な権威を確立したのである。
鎖国政策の歴史的意義と終焉
鎖国政策は、キリスト教の排除と貿易利益の独占を通じて幕藩体制を盤石なものとし、およそ260年にも及ぶ未曾有の長期平和(パックス・トクガワーナ)をもたらした。この平和の庇護のもとで国内市場は統合・発展し、日本独自の思想である国学や、限られた情報から西洋の科学技術を吸収した蘭学、そして町人を中心とする豊かな大衆文化(元禄文化や化政文化など)が独自の進化を遂げた。
しかし一方で、海外の科学技術の急激な進歩や産業革命、近代市民社会の形成といった西洋の爆発的な発展から隔絶される結果となり、19世紀以降の欧米列強との圧倒的な国力差を生み出す要因ともなった。18世紀後半から近海に異国船が頻繁に出没するようになり、1853年のペリー来航による強烈な外圧に抗しきれなくなった幕府は、翌1854年に日米和親条約を締結した。これにより200年以上続いた「鎖国」は名実ともに終焉を迎え、日本は激動の幕末・開国期へと突き進むこととなる。