日本誌
【概説】
江戸時代中期にオランダ商館の医師として来日したドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルが帰国後に執筆した日本の総合的な地誌。ヨーロッパにおける最も権威ある日本研究書として多大な影響を与えただけでなく、本書の一部がのちに志筑忠雄によって和訳されたことで「鎖国」という言葉が誕生したという、日本史において極めて重要な意義を持つ史料である。
ケンペルの来日と『日本誌』執筆の背景
エンゲルベルト・ケンペルはドイツ出身の医師・博物学者であり、オランダ東インド会社に雇用されて1690年(元禄3年)に長崎の出島へ来日した。彼が日本に滞在したのは1692年までのわずか2年間であったが、その間に第5代将軍・徳川綱吉への謁見のため、2度の江戸参府を経験している。ケンペルは持ち前の旺盛な好奇心と科学的な観察眼をもって、日本の地理、歴史、政治制度、宗教、さらには動植物に至るまで幅広い情報を収集した。その際、長崎奉行所のオランダ通詞であった今村源右衛門英生をはじめとする日本人の協力を得て、貴重な文献や見聞を集めることに成功した。
帰国後、ケンペルは収集した膨大な資料をもとに原稿の執筆を進めたが、出版を果たすことなく1716年に世を去った。しかし、彼の遺稿と収集品を入手したイギリスの収集家ハンス・スローン(のちの大英博物館の創設に寄与した人物)の命により英訳作業が進められ、1727年にロンドンで英語版『日本誌』として初めて日の目を見ることとなった。
ヨーロッパ社会における日本認識への絶大な影響
1727年の英語版出版を皮切りに、『日本誌』はフランス語、オランダ語など各国の言語に次々と翻訳され、18世紀から19世紀のヨーロッパ社会に一大センセーションを巻き起こした。17世紀までのヨーロッパにおける日本情報は、主にイエズス会などカトリック宣教師の報告書に依存していたが、それらは布教を目的としたバイアスを含んでいた。対してケンペルの『日本誌』は、啓蒙時代のヨーロッパ知識人が求めていた客観的かつ体系的な「学術的記述」であった。
他国との交流を制限しながらも、独自の洗練された文化と平和な社会、そして高度な統治システムを維持している日本の姿は、モンテスキューやヴォルテール、カントら当時の啓蒙思想家たちに強い衝撃とインスピレーションを与えた。後年、日本を訪れるカール・ツンベルクやフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトといった学者たちにとっても、『日本誌』は来日前の必読書とされるなど、19世紀中頃に至るまでヨーロッパにおける絶対的な日本研究の基本文献であり続けた。
「鎖国」という概念の誕生
『日本誌』が日本史において持つもう一つの、そして最大の意義は、「鎖国」という歴史用語の生みの親となった点である。本書の巻末には、「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、また此の国の世界との交通を絶つことのきわめて理にかなえること」という、江戸幕府の対外政策を肯定的に評価した付録論文が収録されていた。
1801年(享和元年)、元オランダ通詞の蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)がこの論文を和訳した際、長大なタイトルを簡潔に表現するため、本文中にある言葉を組み合わせて『鎖国論』という題名を付けた。ここにおいて初めて「鎖国」という造語が日本の歴史空間に誕生したのである。つまり「鎖国」とは、江戸幕府が古くから自らの政策を指して使っていた公式な言葉ではなく、ケンペルの観察と志筑忠雄の翻訳という「外部からの視点」によって事後的に構築された概念であった。
その後、「鎖国」という言葉は日本の知識人の間に広まり、開国期を経て、近代以降は江戸時代の外交体制(海禁政策)を指す一般的な歴史用語として完全に定着した。近年の日本史学において、「日本は完全に国を閉ざしていたわけではなく、四つの口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通じて世界と繋がっていた」として「鎖国」という用語や見方が再検討されているが、その議論の出発点も、まさにこの『日本誌』がもたらした概念の歴史的背景を問い直すところにあるのである。