ケンペル
【概説】
江戸時代前期の第5代将軍徳川綱吉の治世に、オランダ商館の医師として来日したドイツ人博物学者。出島を拠点に日本の歴史、文化、自然などを詳細に調査し、その記録は死後に『日本誌』として出版された。当時の日本の姿をヨーロッパに広く紹介し、のちに「鎖国」という言葉が生まれるきっかけを作った人物である。
来日の背景と江戸参府
エンゲルベルト・ケンペルは、ドイツのヴェストファーレン地方に生まれた医師であり、博物学者である。世界を巡って見聞を広めることを志し、オランダ東インド会社(VOC)に入社した。ペルシアやインド、ジャワなどを経て、1690年(元禄3年)に船医として日本の長崎・出島に来航した。
当時の日本は、第5代将軍徳川綱吉の治世下であった。ケンペルは1692年(元禄5年)に離日するまでの間、オランダ商館長(カピタン)の江戸参府に2度にわたって随行した。江戸城では綱吉に謁見し、将軍自らが彼らに歌や踊りを所望するなど、強い好奇心をもって接した様子が克明に記録されている。ケンペルはこの江戸への道中を通じて、日本の豊かな自然や整備された交通網、宿場町の賑わいなどを鋭い観察眼で捉えた。
出島での学術調査と協力者
幕府の厳しい統制下にあった出島では、外国人の行動範囲は極めて限定されていた。しかし、ケンペルは長崎の阿蘭陀通詞(オランダ通詞)であった今村源右衛門らの多大な協力を得ることで、この壁を乗り越えた。
ケンペルは自身の持つ西洋の最新の医学や薬学、動植物学の知識を日本の役人や医師に提供する見返りとして、日本の歴史、地理、宗教、政治体制、さらには植物の標本に至るまで、膨大な資料と情報を収集した。彼の持ち帰ったイチョウなどの種子はヨーロッパで発芽し、日本の植物が西洋に定着する先駆けともなった。
ヨーロッパにおける日本像の形成:『日本誌』
離日後、ヨーロッパへ帰還したケンペルは、自らの旅行記や研究をまとめる作業に入ったが、日本に関する包括的な大著を出版する前に死去した。彼の死後、その膨大な遺稿をイギリスの医師・収集家であるハンス・スローンが購入し、英訳させたものが1727年にロンドンで『日本誌』として出版された。
『日本誌』はすぐさまフランス語、オランダ語、ドイツ語などに翻訳され、瞬く間にヨーロッパの知識階級に広まった。啓蒙思想家たちにも読まれ、19世紀の幕末期に至るまで、ヨーロッパにおける日本研究の最も権威ある基本文献として多大な影響を与え続けた。
「鎖国」概念の誕生への影響
ケンペルの歴史的意義は、西洋に日本を紹介したことにとどまらない。彼の著作の付録には、日本の極端な対外制限政策を「自給自足が可能な平和な国家を維持するための優れた政策」として肯定的に評価する小論文が含まれていた。
それから約1世紀後の1801年(享和元年)、長崎の蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)がこの小論文を和訳した際、そのタイトルを『鎖国論』と名付けた。これにより、日本独自の閉鎖的な対外体制を指す「鎖国」という言葉が初めて生み出され、やがて日本人の間にも歴史概念として定着していくこととなった。ケンペルは、意図せずして日本の歴史認識に決定的な用語を与えた人物でもある。