捕鯨 (ほげい)
【概説】
江戸時代に紀伊国や土佐国、肥前国などの沿岸部で発達した、組織的かつ大規模なクジラの捕獲・加工産業。従来の銛で突くだけの方法から、網を用いて拘束する「網取法」へと技術革新を遂げ、江戸期の日本における最大規模の資本主義的・マニュファクチュア的産業へと成長した。
突組から網取法への技術革新
日本の捕鯨は古くから行われていたが、江戸時代初期までは突組(つきぐみ)と呼ばれる、勢子船(せこぶね)でクジラを追い込み、銛(もり)を投げつけて仕留める方法が主流であった。しかし、この方法はクジラに逃げられる確率が高く、命がけの危険な作業でもあった。
こうした状況を劇的に変えたのが、延宝5年(1677年)に紀伊国太地(現・和歌山県太地町)の太地頼治(角右衛門)が考案した網取法(あみとりほう)である。これは、複数の網船でクジラの進路を遮って網に追い込み、動きが鈍ったところを銛で突くという画期的な漁法であった。これにより、捕獲率は飛躍的に向上し、捕鯨は安定した一大産業へと発展を遂げることとなった。
巨大産業組織「鯨組」の成立
網取法の導入にともない、捕鯨には網船、勢子船、持双船(仕留めたクジラを挟んで運ぶ船)など数十隻の船と、数百人から時には千人を超える労働者が必要となった。この巨大な操業体制を組織・運営したのが鯨組(くじらぐみ)と呼ばれる大資本組織である。
代表的なものとして、紀伊の太地氏、土佐の山路氏、肥前生月島の深澤氏などが知られている。鯨組は、船乗りや銛打ちなどの海上労働者だけでなく、陸上での解体・加工を担う作業員、それらを統括する役人などを抱え、分業に基づく高度な組織的経営を行った。これは、近世の日本における先駆的なマニュファクチュア(工場手工業)の形態を示すものであった。
「捨てる所がない」資源利用と同時代への影響
江戸時代の捕鯨は「一頭捕れば七浦潤う」と言われたほど、高い経済効果を地域にもたらした。捕獲されたクジラは、肉が食用となるだけでなく、皮や内臓から抽出される鯨油(げいゆ)、骨やヒゲを用いた工芸品(人形のからくりや扇子の要など)など、文字通り「捨てる所がない」ほど徹底的に活用された。
特に鯨油は、単なる灯火用の燃料にとどまらず、農業において極めて重要な役割を果たした。水田に鯨油を流して害虫(ウンカ)を払い落とす「注油法」が普及すると、鯨油は農業生産力を維持するための必需品となった。江戸中期に享保の飢饉を経験した江戸幕府がこの害虫駆除法を推奨したこともあり、鯨油の需要は急増し、捕鯨地である紀伊、土佐、肥前、長門などの経済を大いに潤すこととなった。