久留米絣 (くるめがすり)
【概説】
江戸時代後期に筑後国久留米地方で考案された、あらかじめ藍で染め分けた糸を用いて模様を織り出す丈夫な綿織物。独特のかすり模様と高い耐久性を持ち、庶民の日常着や作業着として日本全国へ普及した、江戸後期を代表する地方特産品である。
創始者・井上伝と「絣」技法の開発
久留米絣は、寛政年間(18世紀末〜19世紀初頭)に、久留米の城下町に暮らしていた当時12歳ほどの少女、井上伝(いのうえでん)によって考案された。伝は、色あせて白い斑点ができた衣類に着目し、意図的に糸を縛って(括って)藍染めを施すことで染まらない部分を作り、それを織り合わせることで美しい斑点模様(かすり模様)を表現する技法を編み出した。これが久留米絣の起源である。
この技法は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の緻密な計算と設計のもとに発展を遂げ、のちには複雑な幾何学模様や、人物・動植物を表す「絵絣(えがすり)」など、極めて高度な意匠を表現するまでに至った。木綿(もめん)ならではの肌触りの良さと、洗うほどに風合いと美しさを増す実用性の高さから、広く大衆に愛される衣料へと成長した。
地方産業の発達と久留米藩の殖産興業政策
久留米絣が地方の一特産品から全国規模のブランドへと成長した背景には、江戸時代中期以降の商品経済の発達と、それに伴う地方農村の家内工業の自立がある。筑後川流域は綿花栽培に適した土壌であり、同時に藍の栽培も盛んであったため、原料の自給体制が整っていた。これにより、農村の女性による副業として絣織りが急速に浸透していった。
財政難に苦しむ久留米藩は、この久留米絣の生産力を重要な財源として注目し、藩の主導による保護・奨励(殖産興業)を進めた。藩は製品の品質検査を徹底させてブランド力を維持するとともに、特権商人を通じて大坂などの大消費地へと広く流通させた。久留米絣は、伊予絣(愛媛県)や備後絣(広島県)と並ぶ「日本三大絣」へと発展し、江戸後期の領国経済における特産品開発(専売制)や、近代日本の繊維産業へとつながる先駆的な役割を果たすこととなった。